聖コロンバン会百周年

カトリック平塚教会報 第112号 2018年 8月 12日発行

平塚教会主任司祭 トーマス・テハン

1918年11月23日、聖コロンバン会はバチカンから正式に承認されました。11月23日はまた、聖コロンバンの祝日でもあります。この日、コロンバン会百周年を期に、コロンバン会の現在のメンバーや友人たち、そして協力者たちが、神に感謝を捧げるために平塚に集うのは、ふさわしいことだと思います。神はコロンバン会を助け支えることによって、私たち皆を輝かせてくださいました。
この短い文章の中で私は、コロンバン会の宣教師の一人として、日本における旅路の感想を、皆さんと分かち合いたいと思います。

アイルランドのダルガン公園にあるコロンバン会の神学校で私が学んでいたころ、毎年1月になると海外への宣教割り当て表が掲示されました。ほとんどの学生にとって、それはとても楽しみな瞬間でしたが、さらに勉強を続けることになった者や、自分の故郷への赴任が決まった者にとっては、落胆の時期でもありました。
私が神学校にいた時には、海外赴任への関心は、海外宣教地として指定された国への知識を深めるためのプロジェクトによって支えられていました。私は日本を選んでいましたが、日本のことをほとんど知りませんでしたし、日本はアイルランドから最も遠く離れた宣教地でした。
ですから、私のクラスに赴任先の知らせがあったとき、自分がシーマス・カレン神父とともに日本へ行くことになったと知って、とても驚きました。期待に胸を膨らませるとともに、怖れも感じていました。日本から戻った宣教師が、日本語の学習は難しく、他の宣教地と違って目に見える成果が少ないと語っていたからです。

1967年8月、私はアイルランドを発ち、アメリカを経由して日本にやってきました。羽田空港で私を待っていたのは、コロンバン会から出迎えに来てくれた二人と、むし暑い日本の夏でした。うだるような暑さと湿気に、日本に長く滞在できるだろうかと心配になりました。ただ、その翌日、他の観光客とともに箱根に連れて行ってもらいました。箱根の美しさは今でも記憶に残っていて、なんとか夏のむし暑さをしのいでいけそうだと希望が持てました。
日本語についての知識は皆無で、完全に周囲の人々に頼りきりでした。コロンバン会本部と語学学校の担当者は、みなとても親切に助けてくれました。私は自分が受けた教育や薫陶の結果として、自分の想定とは違うことがたくさんあるのだと、徐々に理解していきました。私が日本に来たのは、第二バチカン公会議(1962年から65年に行われた、カトリック教会の方向性に大きな影響を与えた会議)の後です。変化は生活の重要な部分であり、しかも動きは急速でした。

語学学校の2年間を終えて、片瀬教会に赴任することになり、私の気持ちは高ぶりました。片瀬教会のコミュニティーは、週末はとても活発で、週のはじめは静かでした。私は教会のサッカーチームに入りました。日本語はまだ得意ではありませんでしたが、サッカー以外にも、もっと何かやってみたいと考えていました。
その後、豊島教会に移ることになりました。到着したその日、ジュニア・レジオ・マリエのメンバーが、幼稚園の裏で草とりをしていたのが印象的でした。彼らは、とても楽しいグループでした。そのようなポジティブな経験に恵まれ、私はすぐに、3人の司祭とカテキスタ(伝道師)からなる教会のチームに紹介されました。教会の行事に関する打ち合わせや、企画立案や振り返りが行われていました。私は、自分が求めてきたことに出会えたと感じ、キリスト教入門講座の開講に努める経験などを積み重ねながら、その思いをより一層強くしていきました。
私は生徒を導く教師のモデルは持っていましたが、日本語が十分でなかったので、参加者にテキストを読んでもらい、必要があれば説明するようにしました。その結果、肩の荷をおろすことができ、物事のやり方も変わっていきました。家庭集会や分かち合いでのギブ・アンド・テイクによって、それまでと異なる宣教のアプローチができるようになりました。根底に流れる考え方は、「宣教師が来るずっと前から、神は日本におられ活発に働いてこられた」ということです。豊島での時間はとても幸福でした。そして、サマーキャンプを完璧に計画し成功させたジュニア・レジオのメンバーからも、多くを学びました。
豊島のあと、私は藤沢に赴任することになりました。そこでも、参加者のレベルはとても高く、多くの人々の才能が開花しました。藤沢の後、福岡で短い時間を過ごし、すぐに台湾へ行くことになりました。

日本の後に訪れた台湾は、本当に大変でした。再び語学学校に戻ったわけですが、発音の区別がとても難しく感じました。完全に語学教師に頼りながら、説教のテープを聞いたものの、自分が話したことがテープの内容と一致しているかどうか自信が持てないのは、初めての経験でした。一言で言ってしまえば、「力不足」ということなのですが、この時も、信徒を導くために、枝の主日の受難の福音を劇仕立てにするなど努力しました。小さなコミュニティーは生き返ったかのようにみえました。彼らは教会の壁を塗り直したり、その資金を自分たちで調達したり、積極的に活動するようになりました。
また、幸運にも私は、月2回ほど、台北で日本人グループの手助けをすることもできました。しかし、自分の未来が台湾にあるかどうかということを、ふと考え始めました。私には月2回ほど様々な課題を聞いていただける霊的指導者がいました。彼女はある日、「あなたの気持ちは、まだ日本にある」と言いました。自分自身、心の底からそのとおりと感じていたので、コロンバン会の本部に、私を日本へ戻してくれるようお願いしました。
この申し出は認められ、再び藤沢に戻ってくることができました。日本は、かつていたころと比べるとかなり変わっていました。しかし私たちは、通常の活動のほかに、死別の悲しみから立ち直るためのコースや、癒しのセミナーといった活動をみつけました。すばらしい出来事がたくさんあり、私にとってとても楽しい時間でした。教区から委ねられた小教区を、私とコロンバン会の仲間で力強い活発なコミュニティーにすることができ、うれしく思いました。
その後、港南教会に短い期間いましたが、そこでも、ベトナム人の小さなコミュニティーと日本人のコミュニティーの活力が、相乗効果をもたらしました。
最後に私は、平塚教会と第6地区に着任しました。ここでも、ローテーション・システムという、私にとっての新しい挑戦が進行中です。最も弱い人々の声に耳を傾け、応えることが、この地域に多くの贈り物や恩寵をもたらします。

今日の使命について簡潔に述べよと言われれば、お互いのために祈ること、つまり、お互いの中に神を見ること以上のことはないと思います。
日本とそこにいる人々は、日本におけるコロンバン会の宣教に大きな貢献をしてくださいました。私たちはここに、御心が行われることを確信しつつ、ともに神への感謝を捧げます。