2月の教皇の祈りの意向:難病の子どもたちのために 2026-02-05
2026年2月の教皇の祈りの意向は、「難病の子どもたち」をテーマに、次のように祈る。~「難病の子どもたちとその家族が、必要な医療と支援を受けることができますように。そして、力と希望を失うことがありませんように」。~ビデオの中で、教皇レオ14世は、バチカン市国内のサン・ペレグリーノ教会に入られ、ローマの小児科総合病院バンビーノ・ジェズ病院の小さな患者たちが描いた絵を手にしながら、祈りを捧げられる。教皇と共に祈るためのビデオには、英語版、スペイン語版、イタリア語版の3つのバージョンがあるが、YouTubeにおける再生画面の右下、あるいは右上にある「設定」(歯車のマーク)から、日本語など、他の言語の字幕を選択して視聴することができる。
教皇による祈り
父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。
主イエスよ、
子どもたちを御腕に抱かれ、優しさをもって祝福された方よ、
今日、難病を抱えて生きる子どもたちをあなたに託します。
彼らのか弱い体はあなたの現存の証し、
彼らの笑顔は、苦しみの中にあっても、あなたの御国の証しです。
主よ、子どもたちに適切な医療支援が決して欠けることなく、
人間的な寄り添う治療と、
愛をもって見守る共同体の支えが与えられますように。
疲れと不安の中にある、
彼らの家族を希望の中で支えてください、
そして試練の中で強まる信仰の証人としてください。
医師、看護師、医療従事者たちの手を祝福してください、
彼らの仕事が常に積極的な思いやりの表現となりますように。
あなたの霊があらゆる困難な決断において彼らを照らし、
尊厳をもって奉仕するための忍耐と優しさをお与えください。
主よ、苦しむすべての子どもたちの中にあなたの御顔を認めることを教えてください。
彼らのか弱さがわたしたちに思いやりを呼び覚まし、
具体的な連帯の行いをもって、
彼らを気遣い、支え、愛するよう促しますように。
あなたの御心の思いに駆り立てられ
祈りと奉仕によって動く教会を
わたしたちにお与えください。
教会が、弱さを支え、
苦しみの中で、慰めの源、
希望の種、新しいいのちの知らせとなりますように。
アーメン。(抜粋)
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「真福八端の福音は、主が歴史の暗闇にともした光」 2026-02-02
真福八端はわたしたちにとって幸福の試金石となります。それはわたしたちに自問させます。自分たちは幸福を金で買う成果とみなすのか、分かち合われるたまものとみなすのか。幸福を消費される対象のうちに置くのか、自分たちに同伴する人間関係のうちに置くのかと。実際、試練の苦しみがあがなわれた者の喜びへと変えられるのは、「キリストのために」(11節参照)、すなわち、キリストのおかげです。イエスは、遠く離れた慰めについて語るのではなく、とくに苦難のときにわたしたちをつねに支えてくれる絶えざる恵みについて語るのです。 真福八端は、身分の低い者を高く上げ、思い上がる者を打ち散らします(ルカ1・51-52参照)。それゆえ、いつの世の人も幸いな者と呼ぶ、主のはしためである、おとめマリアの執り成しを願い求めます。(抜粋)
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第34回「世界病者の日」に向け、教皇のメッセージ 2026-01-21
カトリック教会は、毎年2月11日の「ルルドの聖母」の日に「世界病者の日」を記念する。~同記念日に先立ち、教皇レオ14世は、「サマリア人の憐れみ:他者の苦しみを負いながら愛する(仮訳)」をテーマに、メッセージを発表された。~イエスは「善きサマリア人」のたとえを通して、隣人とは誰か、ではなく、隣人となる方法、すなわち、わたしたち自らが隣人となるにはどうすべきかを教えている、と教皇は指摘。~思いやりを持つとは、行動へと駆り立てる深く、内面から湧き上がる感情であり、他者の苦しみに寄り添う姿勢へとつながる、と教皇は記し、このたとえにおいて、「思いやりは、積極的な愛の特徴的な要素」であると述べている。サマリア人は、近づき、傷の手当をし、責任を引き受け、世話をした。しかし、それだけでなく、彼はそれを単独で、個人で行わないことに教皇は注目。~レオ14世は、苦しむ人々、思いやり、傾聴、慰めを必要とするすべての人々のために、聖母に祈るよう招かれている。(抜粋)
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「生きるために不可欠な信仰」レオ14世、乳児たちの洗礼式で 2026-01-18
バチカンでは、「主の洗礼」の祝日に、教皇により乳児・幼児の洗礼式がとり行われる。システィーナ礼拝堂を背景に行われるこの恒例の儀式は、1980年代に、教皇ヨハネ・パウロ2世によって始められた。~「赤ちゃんたちが両親である皆さんからいのちを授かったように、今、子どもたちは生きることの意味、すなわち信仰を受けるのです」と教皇は話された。~そして、教皇は幼児洗礼の意義について、「わたしたちは愛する人たちにあるものが不可欠だと知ると、すぐにそれを求めます。実際、生まれたばかりの赤ちゃんに着る物も食べ物も与えずに、彼らが大人になって服や食べ物を選ぶようになるまで放っておく人がいるでしょうか。もし着る物や食べ物が生きるために必要ならば、信仰はそれ以上に重要です。なぜなら、神によっていのちは救いを見出すからです」と説かれた。(抜粋)
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