聖香油のミサのお知らせ(山手司教座聖堂(カトリック山手教会))
聖香油のミサは、洗礼・堅信・叙階の秘跡や小教区の献堂式などで用いられる「聖香油」の聖別と、「病者のための油」と「洗礼志願者のための油」の祝福が行われます。また、本来は聖木曜日に行われるこのミサでは司祭職の制定が祝われ、「司祭の約束の更新」が行われます。
日 時:2024年3月27日(水) 受難の水曜日 11:00
場 所:山手司教座聖堂(カトリック山手教会)
司 式:ラファエル梅村昌弘司教
横浜教区福祉委員会は、障害について学び認識を深め、交流するための集いを下記の通り開催します。
日 時:2024年6月8日(土) 10:00~16:00
場 所:カトリック茅ヶ崎教会(神奈川県茅ヶ崎市中海岸1丁目1-15)
内 容: 9:30 受付
10:00 講話
11:30 昼食(主催者側で準備いたします)
12:30 わかちあい グループにわかれ講話の内容などをもとにわかちあいます。
14:30 手話ミサ 司式:梅村昌弘司教
駐車場:スペースに限りがあります。障害者の方、障害をお持ちの方を同伴される車を優先させていただきますので、出来るだけ公共交通機関をご利用ください。
申込締切り:5月7日(火)厳守
申込先:横浜教区福祉委員会(カトリック沼津教会内) FAX:055-934-2734
※申込み用紙は各小教区で入手していただくか、下記のPDFをダウンロードしてください。
PDF障害共に歩む集いin茅ヶ崎(申込書)
問合せ:場所・交通機関について➩カトリック茅ヶ崎教会 TEL0467-82-2333
内容について➩横浜教区福祉委員会(カトリック沼津教会内)TEL 055-931-2864
e-mail:catholicyd.welfare2024@gmail.com
共催:横浜教区福祉委員会・神奈川第六地区
「若い人が教会に居ない」って本当?小さかったあの頃、親と一緒に行った日曜日の教会。あの頃の友達は最近どうしてるのかなぁ?大人になって初めて出会った信仰。
教会でなかなか同世代の人に会えなくて…よく聞きます!でも…実は教会にはたくさんの青年が居るんです!自分の教会、地域、全国で信仰を中心に青年たちは出会い、どんどんつながりを深めています。そしていつも新しいつながりを歓迎しています。
カトリック青年連絡協議会(横浜教区)
カトリック青年連絡協議会 (@pr_catholicyouth)
カトリック青年連絡協議会広報委員会
2024年度の募集要領を、横浜教区内の小教区・修道院に配布予定です。。
詳細、申し込みについては平塚教会事務室までお問合せ下さい。
※サポートチームの研修会・講座に関して、教区事務局への直接のお問い合わせはご遠慮ください
共同宣教司牧サポートチーム神奈川ウェブサイト
信徒・修道者・司祭による共同宣教司牧 交流会・養成研修会 2023年度研修 一覧
リンク:バチカンニュース
リンク:Vatican News(Youtube)LIVE
2024年3月は、「新たな殉教者」のために、次のように祈る。「世界各地で福音のために生命の危険にさらされている人々が、その勇気と宣教の思いを教会に伝える者となりますように」。~祈りましょう。世界各地で福音のために生命の危険にさらされている人々が、その勇気と宣教の思いを教会に伝える者となりますように。そして、殉教の恵みに開いた者となれますように。(抜粋)
教皇フランシスコは、福音宣教省の世界宣教部門の関係者らとお会いになった。~信仰の伝承が途切れることがないようにと願う教皇は、家庭や、教会で信仰育成に携わる人々との絆を強めると共に、若いカテキスタを育て、「教会のカテキズム」をより普及させるなど、要理教育に力を注ぐことを希望された。また、教皇は来年迎える2025年の聖年に言及。来たる聖年が希望の力を浮かび上がらせる年となるようにと期待された。さらに、教皇は聖年の開催に備え、使徒的書簡を近く発表すると予告。この書簡が、多くの人々にとって、「希望を具体的に生きる」ということについて考える助けになるようにと望まれた。そして、教皇は聖年に先立つ今年は「祈りに捧げる年」であることを忘れないようにと述べつつ、聖母や聖人たちの教えから学び、まず自分たちからよりよく祈ることを始めようと、福音宣教省の関係者らを招かれた。(抜粋)
教皇フランシスコは、3月8日(金)、ローマ教区の小教区の教会を訪問、信者らと共同回心式をとり行われた。~式中の説教で教皇は、洗礼と共に始まった新しいいのちは一つの歩みであるが、たくさん歩いた後で、わたしたちは自分たちの中に流れる聖なるいのちを見失っているかもしれない、と指摘。日常のあわただしいリズムに気をとられ、わたしたちには常に新しいいのちが灰の下で燃え、炎を輝かせるのを待っていることに気づかない、と語った。わたしたちが新しいいのちの歩みを取り戻すには、どの道をとるべきか、それは「神のゆるしの道」である、と教皇は説かれた。(抜粋)
教皇は「悪徳と徳」をめぐるカテケーシスとして、「高慢」について考察された。~高慢の悪徳の症状は、まず、へりくだるということがない。簡単に人を見下す。イエスの裁いてはならないという教えを忘れている。建設的な小さな批判、あるいはまったく無害な所見を述べただけで、烈火のごとく怒る。何事にも憤慨し、他者との関係を恨みをもって断ち切る。高慢に病んだ人とはどうすることもできない。話しかけることも、正すこともできない。実際のところ、彼は自分自身のことをわかっていないからである。こうした人に対してはただ忍耐を持つしかない。なぜなら彼の建物はいつか崩れるからである。イタリアのことわざにこうある。「高慢は馬で行き、歩いて帰る」。~救いは謙遜を通して来る。謙遜はあらゆる高慢な態度の治療薬である。「マニフィカト」の中で、マリアは、思い上がる者の病んだ心の思いを打ち散らす神を高らかに歌っている。この四旬節をわたしたちの高慢と闘う機会としよう。(抜粋)
四旬節第三主日、教皇は集いの説教で、同日の福音朗読箇所、ヨハネ福音書中のイエスが神殿から商人を追い出すエピソード(ヨハネ 2,13-25)を観想された。~今日の福音の中のイエスは厳しい。それは家としての神殿が、市場としての神殿にすり替わることを受け入れがたかったからである。イエスは、神殿が神との関係から遠ざかり、商業的になることを認めなかった。イエスはなぜそれを認めないのか。それは神と人、兄弟と兄弟の間に壁を作るからである。それに対し、イエスは、交わりと、いつくしみ、ゆるし、寄り添いをもたらすために来られた。~わたしたちの四旬節の歩みのためにも、わたしたちの間とそのまわりに、市場より、家を多く築くように招きたい。そのためにも、まず神に対して、信頼をもって父の扉を叩き続ける子のように祈ろう。そして、兄弟愛を広げよう。ここで自問しよう。自分はどのように祈っているだろうか。払うべき値段のように祈るのか、それとも、祈りとは時計を見ることなく、信頼をもって自らを委ねる時間であるのか。自分と人々との関係はどうだろうか。見返りを期待せずに与えることができるだろうか。(抜粋)
四旬節第二主日の福音は、「イエスの変容」のエピソード(マルコ 9,2-10)を示している。イエスは、弟子たちにご自分の受難を予告された後、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登られ、そこで光輝く姿を見せられた。こうして、イエスは弟子たちにその時までご自分と共に過ごしたことの意味を明らかにされた。~開かれた眼差しを育て、祈りの中に、人々の中に、イエスの光を探すこと、これを四旬節の目標としよう。ここで自問しよう。わたしの人生の中で歩みを共にしてくださるキリストを、しっかり見つめているだろうか。そのために、沈黙と祈りと礼拝に時間を割いているだろうか。自分の内側を照らすイエスの光、出会うあらゆる兄弟姉妹の中で輝くイエスの光を、探しに行っているだろうか。神の光に輝く方、マリアよ、眼差しをイエスにしっかりと据え、互いを信頼と愛をもって見つめることができるようにお助けください(抜粋)
教皇は苦しむウクライナの人々に心からの愛情を改めて示されると同時に、無数の無辜の犠牲者をはじめ、すべての人のために祈られた。また、正当かつ持続する平和を追求するために、外交的解決を可能にする条件作りに欠かせない人間性をわずかでも見出すことができるようにと願われた。さらに、教皇は、パレスチナとイスラエルのため、戦争に引き裂かれた多くの人々のために祈り、苦しむ人々に具体的な助けを差し伸べることを忘れないようにとアピールされた。そして、人々の苦しみ、負傷した子どもたち、罪のない人々に思いを向けよう、と呼びかけられた。(抜粋)
復活祭前の準備期間「四旬節」に入って迎えた最初の日曜日、教皇は説教で、同日の福音朗読箇所、マルコ福音書中の、イエスが荒れ野で誘惑を受けたエピソード(マルコ 1,12-15)を取り上げられた。この四旬節、わたしたちもまた「荒れ野に入る」ように招かれている。荒れ野に入るとは、沈黙の中に、内的な世界に、心の傾聴に、真理との接触に入ることである。~自問しよう。わたしの心を騒がせる乱れた情熱、「野獣」とは何だろうか。心に話しかける神の声に耳を傾け、それを守るために、「荒れ野」に入る、すなわち祈りに捧げる時間をとる努力をしているだろうか。御言葉を守り、悪の誘惑に隙を与えなかった聖母マリアよ、わたしたちの四旬節の歩みを助けてください。(抜粋)
「四旬節」の初日である「灰の水曜日」、教皇フランシスコは、ローマの聖サビーナ教会でミサを捧げ、この中で「灰の式」をとり行われた。~四旬節は、自分の虚飾を脱ぎ捨て、ありのままの姿に戻り、自分が何者であるかという自覚をもって、神の御前に心から立ち返る時である、と説かれた。~わたしたちは「神から愛された塵」であるとも強調。神の恵みによって、わたしたちは、イエス・キリストと聖霊において、罪の灰から新しいいのちへと生まれ変わるだろう、と述べられた。(抜粋)
イエスは常に、言葉は少なく、言葉に続いてすぐに行動することが多い。~イエスの姿を思い、イエスに似た者になろうとすることは、どれほどわたしたちのためになることだろうか。また、言葉は控えめだが、行動においては寛大である人、目立つことを嫌がるが、いつでも人の役に立つ心構えができている人、相手に深く耳を傾け、効果的な助けができる人、こういう人たちとの出会いを考えてみよう。人間関係が希薄な今日の世界に、こうした具体性は重要である。~ここで自問しよう。わたしは人々に耳を傾け、彼らの願いに快く応えることができるだろうか。それとも言い訳を主張して、先に延ばし、抽象的で無用な言葉の後ろに隠れるだろうか。孤独な人、あるいは病気の人を最後に訪ねたのはいつだっただろうか。助けを必要とする人のために、自分の予定を変更したことがあっただろうか。機敏に配慮される方、マリアよ、わたしたちが愛において速やかで具体的になれるように助けてください。。(抜粋)
「悪徳と徳」をめぐるカテケーシスで、教皇はこの日「悲嘆」について考察された。~悲嘆は、魂が打ちひしがれた状態、人生に喜びを感じることを妨げる絶え間ない苦しみである。~人の心に生まれる希望は、時には失望に変わる。こうしたことが起きる時、心が崖から突き落とされたかのように感じ、精神的な脆さ、意気消沈、苦悩を味わう。誰もが人生の中で夢を抱き、その夢が粉々になる試練を体験する。こうした場合、ある人々は、動揺の時期の後、希望に委ねるが、別の人たちは悲嘆のるつぼに陥り、心を壊疽させてしまう。~わたしたちはこの種の悲しみに注意し、イエスが復活によってもたらしてくださる喜びを考えよう。イエスはご自分のためだけでなく、わたしたちのために復活されたのである。そして、イエスはわたしたちの人生の未完成の幸福を贖ってくださる。信仰は恐れを追い払い、キリストの復活は悲しみを墓石のように取り除く。キリスト者の毎日が復活の訓練である。悲嘆に聖性をもって勝利できるよう、復活されたイエスの霊がわたしたちを助けてくださいますように。(抜粋)
教皇フランシスコは、「四旬節メッセージ」を発表された。カトリック教会の典礼暦は、2月14日の「灰の水曜日」より、復活祭の準備期間、「四旬節」を迎える。2024年度の四旬節に向け、教皇は「荒れ野を通して神はわたしたちを自由へ導かれる(仮訳)」というタイトルのメッセージを発表された。~「四旬節は恵みの時」と教皇は強調しつつ、「四旬節には、預言者ホセアが言うように(参照 ホセア2,16-17)、荒れ野は最初の愛の場所に戻る。神は、ご自身の民に、奴隷の状態から脱し、死からいのちへと移ることができるよう教えられる」と記された。~「この四旬節が回心の時であるならば、道に迷った人類は、創造性のおののき、新しい希望の光のひらめきを感じるだろう」と教皇は述べながら、「回心の勇気、隷属から抜け出す勇気」を持つよう、信者たちに呼びかけられた。(抜粋)