第56回横浜教区一粒会大会の同時視聴配信がYouTubeにて行われます。 テーマ:「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ1.17) 日 時:2024年10月14日(月)スポーツの日 12:00~15:00 以下のURLから配信先(松本教会YouTubeチャンネル)にアクセスすることができます。 その他、第56回一粒会大会に関しては過去のお知らせをご覧ください。
※過去のお知らせ
※同時視聴はこちらから
9月23日(月・祝) 横浜教区信仰教育委員会主催、リーダー研修会(於:平塚教会)テーマは「読み聞かせ」です。どなたでもご参加頂けますので、ご希望の方は聖堂入口にあるご案内をご覧ください。 申込み締め切りは9月9日(月)です。ZOOMでの参加もできます。 ※教会学校リーダー研修会のお知らせ(申込方法)
「若い人が教会に居ない」って本当?小さかったあの頃、親と一緒に行った日曜日の教会。あの頃の友達は最近どうしてるのかなぁ?大人になって初めて出会った信仰。 教会でなかなか同世代の人に会えなくて…よく聞きます!でも…実は教会にはたくさんの青年が居るんです!自分の教会、地域、全国で信仰を中心に青年たちは出会い、どんどんつながりを深めています。そしていつも新しいつながりを歓迎しています。
カトリック青年連絡協議会(横浜教区)
カトリック青年連絡協議会 (@pr_catholicyouth)
カトリック青年連絡協議会広報委員会
「共同宣教司牧サポートチーム神奈川 2024年度版研修一覧表」を聖堂入り口に掲示してあります。申込書は、司祭館事務室にあります。各講座ごとに申し込みの期日がございますので、御確認をお願いいたします。 ※サポートチームの研修会・講座に関して、教区事務局への直接のお問い合わせはご遠慮ください 共同宣教司牧サポートチーム神奈川ウェブサイト 信徒・修道者・司祭による共同宣教司牧 交流会・養成研修会 2024年度研修 一覧
リンク:バチカンニュース リンク:Vatican News(Youtube)LIVE
2024年9月は、「地球の叫び」のために、次のように祈る。「私たち一人ひとりが、地球の叫びに、また、環境災害や気候変動の犠牲者の叫びに心の耳を傾け、私たちの住む世界を大切にする生き方へと導かれますように」。~ 祈りましょう。私たち一人ひとりが、地球の叫びに、また、環境災害や気候変動の犠牲者の叫びに心の耳を傾け、私たちの住む世界を大切にする生き方へと導かれますように。(抜粋)
カトリック教会は、9月1日(日)、「被造物を大切にする世界祈願日」を記念した。この日は、環境保護に対する関心を喚起し、環境問題をめぐり考察と祈りを深めることを目的としている。~この日記念された「被造物を大切にする世界祈願日」に言及。制度や、組織、家族、個人など、すべての立場から、共に暮らす家=地球に対する具体的な取り組みが行われることを望まれた。教皇は、傷ついた地球の叫びはますます憂慮させるものであり、これ以上延期できない決定的な行動が求められている、と話された。~教皇は、翌日9月2日(月)から、東南アジアとオセアニアの4カ国を歴訪されるが、これらの訪問の実りを祈って欲しいと願われた。(抜粋)
ファリサイ派の人々と律法学者たちが、イエスの弟子たちの中で汚れた手で食事をする者がいることを指摘する。そこで、イエスは本当の清さと汚れの意味について人々に説かれた。~本当の「清さ」とは、外見の慣習ではなく、何よりも内的な心構えと結びついていると言われる。それゆえ、貪欲や、ねたみ、傲慢などの悪い思い、あるいは詐欺、盗み、裏切り、悪口などの良くない意図を心に育てているならば(参照 マルコ7,21-22)、清くなるために、手を何度も洗っても仕方がない。~これはわたしたちにも大切なことである。たとえば、ミサが終わり、外に出る時に、教会の入り口でもう立ち止まり、あらゆる人、あらゆることについて、いつくしみに欠けた、悪意あるうわさ話を始めたり、あるいは、祈りにおいては信心深く見せながら、家に帰れば、自分の家族を冷たくあしらったり、助けと寄り添いを必要とする年老いた両親を放っておく(参照 マルコ7,10-13)ことはできない。さらには、一見すべての人に正しく接し、ボランティア活動をしたり、博愛主義的行動をとっても、心に他者への憎しみを抱き、貧しい人たちを軽蔑し、仕事において不正直ならば意味がない。 ~自問しよう。わたしは信仰を言動一致のうちに生きているだろうか。兄弟に対し、祈りの中で言っていることを、思い、言葉、行いをもって具体化しているだろうか。あまねく清き母、マリアよ、心からの実践的な愛を通して、わたしたちの生活を神に喜ばれる祭礼とすることができるようお助けください。(抜粋)
「わたしたちが生きる社会はキリスト教社会ではないが、われわれは今日の多様化された社会においてキリスト者として生きるように招かれている」と教皇は述べた。また、教皇はウルバニアン大学へ寄せられる期待と未来像をめぐり、育成と研究の質の向上と、人材的・経済的リソースの合理化という2つの要求を一致させる必要を示しながら、そこには、今日の視点を越えて将来の教会や社会の状況を見つめる力と、ふさわしい道を見出すための健全な創造性が求められている、と語った。~宣教的精神をもって、様々な文化の間で福音を宣べ伝え、福音を文化に根付かせることのできる司牧者や修道者、信徒らがいかに必要とされていることか、と話された。 教皇はこの会議の開催に感謝され、その作業の実りを祈られた。(抜粋)
教皇は継続中のカテケーシスの代わりに、「海と荒れ野」をテーマに、平和と安全な生活を求めて新たな地を目指す移民たちに思いを向けた講話を行われた。~世界の各地で、負傷し見捨てられた移民たちを救助する多くの善きサマリア人たちに感謝したい。これらの勇気ある人々は、無関心と切り捨ての文化に影響されない人間性のしるしである。彼らと共に「第一線」に立てない人々にも、祈りをはじめ、寄与するための多くの方法がある。海と荒れ野が、墓場ではなく、神が自由と兄弟愛の道を開く場所となるように、皆の心と力を合わせよう。(抜粋)
年間第21主日、教皇は祈りの前の説教で、この日の福音朗読箇所(ヨハネ6,60-69)を取り上げられた。~主に従い、主の行動を理解し、その判断基準や模範を自分のものとすることは簡単ではない。しかし、わたしたちが主のより近くにいて、その福音により従うほど、秘跡を通して主の恵みにあずかり、祈りにおいて主の寄り添いを得、謙遜と愛に倣い、主を友とする素晴らしさを経験し、主だけが「永遠の命の言葉」を持っておられると気付くことができる。では、自問しよう。わたしの生活にイエスはどれだけ存在しているだろうか。イエスの言葉にどれだけ触れ、それにどれほど揺さぶられているだろうか。自分にとっても、それは「永遠の命の言葉」と言えるだろうか。神の御言葉、イエスを自らの肉に受け入れたマリアよ、わたしたちがイエスに耳を傾け、イエスから決して離れることがないようにお助けください。(抜粋)
教皇フランシスコは、先日ウクライナにおいて成立した、同国内でモスクワ総主教庁に属する正教会の活動を禁止する法律に対し、「直接的あるいは間接的に、いかなるキリスト教教会も廃止されることがないように願う」と述べた。~25日、バチカンで行われた祈りの集いで、ウクライナとロシアにおける戦争の情勢を悲しみをもって追っていると述べた教皇は、先日ウクライナで採択された法律に言及。「祈る人の自由をめぐり、懸念を抱いている」と話した。教皇は、「なぜなら、真に祈る人は常にすべての人のために祈るからだ。祈ることで、悪を犯さない。もし、誰かが自国民のために悪を犯すならば、そのために有罪になるであろうが、祈ったからといって、悪を犯したことにはならない。それゆえ、祈りたい人を、その人が自分の教会だと見なす教会で祈らせてあげることだ。直接的であれ、間接的であれ、いかなるキリスト教教会も廃止されることがないように願う。教会に触れてはならない」と呼びかけた。(抜粋)
教皇は、「聖霊と花嫁。聖霊は神の民をわたしたちの希望イエスとの出会いへと導く」を主題とするカテケーシスで、この日は「イエスの洗礼における聖霊」をテーマに考察された。~聖パウロは、コリントの信徒への手紙で、「わたしたちはキリストによって神に捧げられる良い香りです」(2コリント2,5)と記している。しかし、残念ながら、しばしばキリスト者はキリストの良い香りではなく、自分自身の罪の悪臭を拡散している。しかし、だからといってそれが、一人ひとりが自分の置かれた環境で、この世におけるキリストの良い香りとなる、という崇高な召命を実現するためのわれわれの努力をそらすことになってはならない。キリストの香りは、「霊の結ぶ実」から解き放たれる。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5,22)。これらの実を育てるように努力するならば、わたしたちの知らぬ間に、誰かがわれわれのまわりにキリストの霊の香りを感じるだろう。(抜粋)
教皇フランシスコは、イタリアのリミニで開催される「市民間の友情のためのミーティング」にメッセージをおくられた。~この中で教皇は、冷たい戦争の風が吹き、不正義や暴力、不平等が繰り返され、深刻な気候危機に脅かされる今日、どのように生き、希望すべきかを立ち止まって考えることが不可欠であると述べている。 「本質を乞う者」、「人生に意味を与えるものを求める者」となるよう励ます教皇は、高みを目指す人が不要なものを脱ぎ捨てるように、わたしたちも日常生活を重くしているものから解放されることで、人生の価値は物や成功や競争の中にではなく、わたしたちを支える愛、すなわち神との友情の中にあることを発見することができるだろう、と記している。~教皇は、わたしたちにとって本質的で、最も美しく魅力的、かつ必要とされるものは、イエス・キリストにおける信仰である、と強調。主だけが、逆境の中でわたしたちの脆い人間性を救い、神なくしては不可能な喜びを体験させてくださる、と述べた。(抜粋)
イエスは、わたしたちの最も大きい必要をいやしてくださる。わたしたちを救い、われわれのいのちをご自身のいのちで永遠に養ってくださる。そして、イエスのおかげでわたしたちは、神と、また自分たちどうしで、交わりを生きることが可能になる。まことの生きたパンは、すべての問題を一気に解決する魔法のようなものではない。しかし、それは、貧しい人に希望をもたらし、自らが飽食するために貧しい人を貶める者の横暴さに打ち勝たせるものである。では、自問しよう。わたしは、自分のためだけでなく、すべての兄弟姉妹のために、救いに飢え渇いているだろうか。いつくしみの奇跡である聖体を拝領する時、わたしたちのために死に、復活された主の御からだを前に、驚きを感じることができるだろうか。パンのしるしのうちに与えられる天の賜物を受け入れることができるよう、おとめマリアの助けを共に祈ろう。(抜粋)
教皇フランシスコは、社会的緊張と戦争に苦しむ世界各地の人々の不安と苦悩を聖母に託して祈られた。~教皇は、ウクライナ、中東、パレスチナ、イスラエル、スーダン、ミャンマーをはじめとするすべての人に、慰めと、平安で調和ある未来を聖母に祈り求められた。パレスチナ・ガザ地区における深刻な人道的状況を憂慮する教皇は、すべての前線における停戦と、人質の解放、疲弊しきった人々への支援を訴えられた。教皇は、この悲劇を一刻も早く終わらせるため、紛争のこれ以上の拡大を防ぎ、協議の道を進めるようにあらゆる努力を尽くしてほしいと、すべての人々を励まされた。そして、「戦争とは敗北であることを忘れないように」と繰り返された。(抜粋)
典礼暦で「聖母の被昇天」の祭日を祝った8月15日(木)、教皇フランシスコは、お告げの祈りをバチカンの広場の巡礼者と共に唱えられた。~「出かけて、行った」(参照 ルカ1,39)という福音書の表現は美しいものである。それは、マリアが天使からの告知を自分だけのものと考えていないことを意味する。その反対に、マリアは、その喜びを他の人に伝えたいと望む人の急いだ様子と、従姉妹を助けたいという心配りをもって、家を出て、歩き始めるのである。~マリアを「うごかない蝋(ろう)の彫像」のように想像してはならない。マリアの中にわたしたちは「すり切れたサンダルを履き、大いに疲れた姉妹」 (C. Carretto, Beata te che hai creduto, Roma 1983, p. 13) を見ることができる。なぜなら、マリアは主に従って歩み、兄弟たちと出会い、天の栄光においてようやくその旅を終えたからである。(抜粋)
主がわたしたちに言われることに真に耳を傾ける代わりに、主や他の人々から、自分の考えや確信、判断について確認を取ろうとするだけのことがある。しかし、このような神との向き合い方では、神と本当に出会えず、善のもとに成長し、御旨を果たし、閉じた困難な状態を克服し、その光と恵みの賜物に自分を開くことができない。真の信仰と祈りは精神と心を開くものであり、閉じるものではない。ここで自問しよう。信仰生活において、わたしは本当に自分を沈黙させ、神に耳を傾けることができるだろうか。自分の決まり切った考えを超え、神の助けをもって恐れに打ち勝ち、みことばを受け入れることができるだろうか。マリアよ、信仰のもとに主の声に耳を傾け、勇気をもってその御旨を果たせるように、わたしたちをお助けください。(抜粋)
教皇フランシスコは、8月11日(日)の正午の祈りの集いで、広島と長崎の原爆忌を心に留められた。ここ数日、わたしたちは広島と長崎への原爆投下を思い起こした、と述べた教皇は、原爆とすべての戦争の犠牲者を主に委ね続けながら、わたしたちの平和への強い祈りを新たにしよう、と呼びかけられた。そして、教皇は特にウクライナ、中東、パレスチナ、イスラエル、スーダン、ミャンマーのために祈られた。核兵器の廃絶を訴える教皇フランシスコは、2019年の訪日で、11月24日、長崎市の爆心地公園と、広島市の平和記念碑とを訪れ、犠牲者を追悼し、平和への祈りを捧げると共に、「原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の保有は、それ自体が倫理に反しています」(2019年11月24日、広島平和記念公園)という明確なメッセージを述べている。そして、様々な機会を通し、「核兵器のない世界」を目指すようアピールしている。(抜粋)
司祭を目指す人をはじめ、司牧担当者や、すべてのキリスト教信者に向けたこの書簡で、教皇は人間的な成熟の歩みの中で小説や詩を読むことの価値を強調された。「良書は精神を開かせ、心を促し、人生を鍛える」と記す教皇は、読書への愛を再び呼び覚まし、司祭育成の場で文学作品を読むことによりスペースを割くならば、「司牧者の心と精神を開き」、「自由で謙遜な自身の理性を鍛え」「人間的表現の豊かな多様性を認める」ことで、人間としての感受性を増し、自分を霊的に大きく広げることができるだろうと期待されている。~文学に親しむことは、キリストの神性あふれる人間性をより深く感じるために、将来の司祭と司牧担当者らを助けるものと説いている。(抜粋)
教皇は、子どもたちをはじめとするすべての犠牲者のために祈り、聖地のドゥルーズ派の共同体、またパレスチナ、イスラエル、レバノン国民のために、精神的寄り添いを示された。特に教皇は対話を再開するための勇気を持つよう励まし、ガザおよびすべての紛争地で停戦し、人質を解放し、人道支援を通して人々を助けるようアピールした。狙いを定めたものも含め、攻撃や殺害は決して解決にはなり得ず、正義と平和の歩みを進めるどころか、ますます憎しみと復讐を生むだけである、と述べた教皇は、「兄弟姉妹たちよ、もう十分です」、と強調。平和の神の言葉をもみ消さず、平和を聖地と中東と全世界の未来とするようにと呼びかけられた。またこの日、教皇はミャンマーを忘れないようにとも願われた。(抜粋)
教皇フランシスコは、「おとめマリアとの交わりにおいて、イエスと出会い、信仰の火を燃え立たせるために」メジュゴリエに集った多くの若者たちに、メッセージをおくられた。~教皇は「マリアはイエスが自分の家に入られただけでなく、自分の心の中にも入ろうとされていることを悟った。実際、マリアは主の足もとに座って御言葉に耳を傾けた。こうしてマリアは『良い方』を選んだのであり、それは『取り上げてはならない』ものであった」と述べている。また、教皇は、もう一人のイエスの真の弟子、ナザレのマリアに注目。おとめマリアが神の御言葉を心に受け入れ、自身のすべてを捧げて神のご計画に参与し、イエスの誕生から受難と死まで、そして弟子たちと共に迎えた聖霊降臨に至るまで、その使命を誠実に注意深く果たしたことを思い起こしつつ、おとめマリアもまた、主イエスという「良い方」を選んだ、と強調している。教皇は若者たちにもキリストの真の弟子になるようにと呼びかけ、そのために御言葉に照らされ、ゆるしの秘跡と聖体の秘跡に与り、聖体礼拝を通して主と心と心の出会いを持つようにと勧めている。福音を告げるのは司祭や修道者だけの務めではないと述べた教皇は、若者たちに、特に具体的な日常の生活を通してキリストの生き生きとした現存を証しして欲しい、と希望された。(抜粋)
7月28日(日)、カトリック教会は2024年度の「祖父母と高齢者のための世界祈願日」を記念した。同日バチカンで行われたお告げの祈りの集いで、この祈願日に言及した教皇フランシスコは、今年のテーマ「老いの日にも見放さないでください」(参照 詩編71,9)を紹介。~「孫と祖父母、若者とお年寄りとの絆を強めよう」と述べた教皇は、「高齢者たちの孤独にノーと言おう」とアピールされた。「わたしたちの未来は、祖父母と孫たちが共に生きることをいかに学ぶかにかかっている」と説きつつ、教皇は「お年寄りたちを忘れてはなりません」と呼びかけられた。(抜粋)