私の魂は主をあがめます

特集 キリシタンの信仰

9年前のペトロ岐部と187殉教者に続いて、今年は ユスト高山右近 が列福されました。合わせて 映画「沈黙」 も公開され、改めてキリシタンへの関心が高まっています。そこで教会報でも、キリシタンの特集をお送りすることとし、編集部員が三者三様に原稿をまとめました。


潜伏キリシタンに学ぶ

偉大なる先人たち

ユネスコの諮問機関・イコモスが、2018年の世界文化遺産登録を、長崎の教会群ではなく「潜伏キリシタン」を採用するように長崎県に助言したとき、キリシタンの深い信仰心こそ日本人気質、とくに崇高で高潔な精神性を表すもので、当然その価値があると私は思った(登録は“沖の島”に先を越されたが)。
しかし世界遺産登録を期待するには潜伏キリシタンに関する資料が不足している。役人に踏み込まれたときにキリスト教でないことを装うために、記録を残すわけにはいかなかったのだ。
マリア観音や魔鏡(反射した光の中に十字架が浮かぶ)などで、心の中にキリスト教のイメージを保ち続ける工夫を施したものが残されているが、信徒名簿や洗礼証明書などの資料を残していない。

潜伏キリシタンの信仰生活

彼らは若干の祈祷書などを所持しており、司祭代わりの「帳方(ちょうかた)」、洗礼を授ける「水方(みずかた)」、水方のアシスタントの「聞役(ききやく)」など、役割を分担し、日々の祈りや典礼を怠らなかった。
バスチャンという日本人伝道師が、サン・ジワン神父から教わって、典礼の暦を作っておいたので、長い潜伏生活でも受け継いでいくことができたといわれている。
気づかれないように信仰生活を続けるのが容易でなかったことは想像に難くない。仏教や神道を装うため、「宗門改め」で踏み絵をした後は、こんちりさん(痛悔)の祈りを必死で唱えた。
こうして教会もなければ司祭もいない環境で、口伝でラテン語やポルトガル語の祈りを伝承し続け、ひたすら禁教令が解かれる日を待つこと250年、七代にもわたって、決してキリスト教を絶やさなかったのだ。

棄教の命令に従わなければ凄惨な罰則が待ち受けているのを知りつつも信仰を捨てなかった殉教者たちは、列聖、列福してカトリック史上の英雄として世界中でたたえられている。
しかし、役人の目を逃れ、或いは絵踏みをして非キリスト者を装い、山中や離島に逃れた潜伏キリシタンたちも、命こそ棄てなかったが、長期にわたる過酷で壮絶な生活にも挫折することなく、キリスト信仰を守り続けたのだ。彼らにも殉教者と同様に喝さいのスポットライトが当たってもいいはずだ。

キリスト信仰のパラドックス

信仰のない人々にとって、殉教者や潜伏キリシタンがキリスト教を死守する意味は理解できないだろう。こんなに苦しんでいるのに、神が「沈黙」し続けるはずがない。つまり、「神はいない」というところで思考が止まる。信仰のない人には、棄教を迫る幕府を説得できなかったら敗北でしかない。
しかし、イエスの十字架上の死が人類の救いとするキリスト信者は、神の救いが逆説的に実現されることを信じることができる。

頭が島教会
信教の自由が認められ、キリシタンたちは自ら聖堂建設に携わった。積み上げる順番が誰にもわかるように、いくつかの石には番号が刻まれている。完成まで12年を費やした。

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潜伏キリシタンの信仰から、我々信徒はどのように神と関わって生きているかを考える。自分は常に主の道を整えて歩んでいるのか、と日々腐心する。また、する義務をいつ、どのように果たそうと思っているのか。棄教を迫られなくても、我々キリスト者は神を証しする義務がある。自分にできる方法でいいといわれているが。
なぜ禁教の時代にキリシタンたちは命を賭してまでそれができたのか。

最近、教皇フランシスコの一般謁見講話をカトリック新聞で読み、キリシタンが信仰を守り続けた勇気というものが少し理解できたような気がした。
「キリストを信じる私たちは聖人になる望みを抱いて生きるべき」
「それには、順境のときも逆境の時も、神に心を開いた人生を送ることである」
殉教者や潜伏キリシタンは、果敢に幕府に抗ったわけではない。彼らは、このときこそキリスト者としての生き方を身をもって示そうと考えたのだと思う。
「神は我々を決して見捨てない」ことをよく理解していたからこそ、彼らはそれを体現したのだ。
彼ら自身が神を決して見捨てなかったのは、神が彼らの現状を知っていてくださることを確信していたからだ。とはそういうものだと思う。
彼らは深い祈りによって確実に神を身近に感じ、救いの日を確信していたのだ。そして、長くかかったが、その日は来た。
その日、即ち1873年(明治6年)3月、明治政府がキリシタン禁制を撤廃した。江戸幕府が二百数十年つづけてきた禁教令の高札が撤去され、潜伏キリシタンは悲願の信教の自由を獲得した。

キリシタン禁制の撤廃は、明治政府が理解を示したからではない。
禁教と迫害に対する諸外国の非難が強まり、激しく抗議を受けるようになっていたのだ。
欧米各国のように自由と民権を推し進めるため、明治政府は外交使節団を各国に派遣したが、行く先々でキリシタン迫害の抗議を受けた。英国とフランスでは、市民に取り囲まれ、ごうごうたる非難を浴びた。政府は使節団のそのような報告から、キリシタン禁制を撤廃せざるをえなかった。


「信徒発見」でなくて「神父発見」

865年(慶応元年)3月17日、長崎の大浦天主堂に15人ほどの日本人が役人の目をかいくぐって飛び込んできた。そして、その中のひとり、イザべリナ杉本ゆりがプチジャン神父に話しかけた。
「わたしたちのむね、あなたのむねと同じ」
「サンタマリアの御像はどこ?」
プチジャン神父は、杉本ゆりの言葉をローマ字でそのままフランスに書き送っている。パリ外国宣教会では、キリシタンの子孫がいるのではないかと、かすかな期待をしていたので、「信徒発見」の報告は驚くべき感動の史実となっている。

日米修好通商条約締結(1858年)後、全国の居留地にキリスト教会ができたが、幕府は宣教師と日本人の接触を固く禁じ、教会の周辺で見張っていた。しかしプチジャン神父は、キリシタンの子孫は必ず現れると確信して、6年間待ち続けたのだった。
一方、潜伏キリシタンは、カトリック教会で司祭に会える日を250年間待ち望んできたのだ。サンタマリア像の有無でプロテスタントかカトリックかを確認し、「マリアを通じてキリストへ」という教会の教えのとおり、「サンタマリアを通じて神父様を見つけた」のだった。潜伏キリシタンの子孫にとっては、まさに「神父発見」なのだ。

執筆 N・・さん

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