私の魂は主をあがめます

潜伏キリシタンを支えた日本語教理書

潜伏キリシタンは、なぜ250年にもわたって、信仰を守り続けることができたのでしょうか。そこには様々な理由が考えられますが、宣教師たちが残した信仰の基盤が、日本の信徒たちにしっかり根付いていたことも、その理由のひとつだと考えられます。しかも、その伝達は、言葉の壁という大きな障害を越えて行われたのですから驚きです。潜伏時代を支えた日本語教理書が、どのように作られたかを探っ てみました。

ザビエルのドチリナ

1549年8月15日にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸した時、ザビエルは日本における宣教のために、日本語のテキストを携えていました。そのテキストの作成は、遡ること2年前、ザビエルがマレーシアの港湾都市マラッカで、アンジローという薩摩出身の日本人に出会ったところから始まります。ザビエルはアンジローに受洗の準備をうながすとともに、それまでザビエルが宣教地で使ってきた、「ドチリナ」の日本語訳への協力を依頼したのです。

「ドチリナ」とはラテン語で、「教義」または「教義書」を意味する言葉です。もともとはポルトガルの子どもたちのために、キリスト信者が暗唱すべき祈りや十戒などをまとめたものでした。ザビエルはそれを、インドなどの布教地の実情に合わせて改定しながら使っていました。
しかし、ザビエルの「ドチリナ」日本語訳は、5年後にイエズス会の管区長ヌニエスによって使用を禁止されます。禁止の理由は、ザビエルが用いた宗教用語の訳語が、ほとんど仏教用語だったためでした。
管区長ヌニエスは、日本人の協力者とともに、「ドチリナ」の新しい日本語訳に取り組みます。宣教師たちはそれを活用しつつ、日本での経験を踏まえて、絶えず補充、改定していきました。改定された「ドチリナ」は、手書きによって日本全土に広がっていきました。

ヴァリニャーノの印刷機

日本語版ドチリナが、初めて印刷されたのは1591年のことです。イエズス会の巡察師ヴァリニャーノが、少年使節とともにヨーロッパから帰国した時に、活版印刷機を持ち帰ったのでした。ただしヨーロッパから持ち帰った印刷機の活字は、ローマ字のみだったので、宣教師たちは日本語活字の開発から始めなければなりませんでした。そして、ひらがなの木版活字を使って初めて印刷されたのが、現在ヴァチカン図書館に保存されている「どちりいな・きりしたん」です。

1592年に長崎で開かれたイエズス会の「第1回日本管区会議」の会議録には、次のような記述が残っています。
「ドチリナ・キリシタンの祈りと問答は、今までいろいろと日本語に訳されたが、日本人修道士は我らの言葉をよく知らず、神父たちもまたこの新しい国語の翻訳が充分だったか否かについて判断できなかった。しかしこのたび、日本語に精通してきた神父たちと日本人修道士たちとによって、すべてにわたって審査された上で、巡察師の命令により、ドチリナ・キリシタンが日本の活字で印刷された。この書は、日本全国に使用されるべきものである」

日本語版ドチリナドは、大量に印刷されましたが、その普及は簡単ではありませんでした。秀吉による禁教令が厳しさを増すと、ヴァリニャーノの持ち帰った印刷機も迫害を逃れて転々とすることになります。そんな中でも、技術開発は続けられ、1600年版のドチリナは、実用化されたばかりの金属活字で印刷されました。


日本人の理解のために

日本語版ドチリナの内容を現在から振り返ると、当時の日本人にキリスト教を理解させるための、様々な工夫が見えてきます。

まず書式についてです。ポルトガル語の原書は、教師が質問し子どもが答える問答形式になっていましたが、日本語版ドチリナは師が弟子の質問に答える形式に変えられています。これは、日本を含めた東洋には、師が弟子の質問に答える問答形式の伝統があったため、そのなじみのある形式に合わせたためだと思われます。

また、日本人にはわかりにくい概念や表現については、特に丁寧な説明が加えられています。なかでも詳しく説明されているのは、7つの秘蹟の部分です。

まず、洗礼については、この秘蹟の重大さを教えたうえで、その授け方についても詳しく説明しています。司祭がいない場合には、一般の信徒でも授けることができることを説明し、その時の動作や日本語による祈りについても詳しく記述しています。この部分は、潜伏キリシタンが司祭なしに250年間信仰を守り通すために、おおいに役立ったと思われます。

また、婚姻の秘蹟についても詳しく説明しています。特に、離婚の禁止の説明の箇所では、それまで問答形式だったものが突然対話調に変わり、弟子が「それあまりに厳しきお定めなり」と反論するところまで出てきて、思わず微笑んでしまいます。

このように、キリスト教を日本に根付かせようとした宣教師たちの数十年にわたる努力が、すぐれた日本語教理書を生み出しました。キリスト教の本質は守りながらも、日本の実情に合わせてしなやかに作りかえられてきた教理書の存在が、その後の長く厳しい潜伏時代をしたたかに生きた信徒たちにとって、大きな支えになったのは間違いないと思われます。

この原稿を書くために、O・・さんから2冊の本を借りました。『キリシタンの心』(フーベルト・チースリク著)と『ドチリイナ・キリシタン』(宮脇白夜・訳、どちらも聖母文庫)です。

本を借りる時に、O・・さんと「なぜキリシタンは、命をかけてまで信仰を守れたのか」話し合いました。O・・さんの意見は、
「当時のキリシタンにとって、戦いや、飢饉や、疫病など、死がとても身近だったことが、ひとつの理由ではないか。それに加えて、信仰をまっとうした人には、やはり神様からの特別な恩寵があったのではないか」というものでした。
この特集のために、様々な立場から書かれたキリシタンに関する本を読みましたが、この O・・さんの意見が、私にとっては最も腑に落ちるものでした。

執筆 H・・さん

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