カトリック平塚教会報 第109号 2017年 8月 13日発行
平塚教会主任司祭 トーマス・テハン
典礼の暦の中で、聖母の被昇天の祝日は、厳粛な祝いがほとんどない時期にやってきます。日本では家族と一緒に過ごすために、多くの人々が旅行に出かける夏休みの時期にあたります。教会がこの祝日を与えてくださるのは、主が聖母のためにしたことについて私たちにふり返らせたいからではないかと思います。まず、マリアが親類であるエリサベトを訪ねた時の祈りの冒頭箇所からふり返ってみましょう。
ルカによる福音1:47-48には、次のように記録されています。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。」
マリアは自身の信念を率直に語っています。同様に、ルカによる福音の受胎告知の場面でも、神に対する完全な信頼と受容の様子が表れています。疑う余地もなくマリアの生活の焦点、中心は神です。イエスもまた、弟子たちがどのように祈るべきかたずねた時、神をいちばんに考えるよう教えました。私たちは、日々自分自身の願いや要望に気をとられていると、神をいちばんに考えることを、いとも容易に忘れてしまいます。
マリアは全身全霊をもって主の偉大さをたたえています。もし私たちがマリアと同じ意識をもって祈ることができたら、どれほどすばらしいでしょう。私たちが所有するもの、そして私たちの存在すべてが、神から贈られたものです。呼吸について考えてみれば簡単に分かります。私たちが一回一回呼吸するたびに、神は私たちに命の息吹を吹き込んでくださっているのです。マリアは生涯を通してこのことを意識的に知ることができる才能を与えられていたのだと思います。ルカは次のような表現をしています。マリアとヨセフが神殿の境内で、いなくなったイエスを見つけた時、「母(マリア)はこれらのことをすべて心に納めていた」。
マリアは、「お言葉どおりこの身に成りますように」という彼女の言葉の結果を、謙虚に受け入れました。彼女の神への信念は、いかなる疑念をも乗り越えるに十分なほど強く、彼女は現在の時間を生きるために自らを解放したのです。私たちのほとんどの困難はここにあります。過去と未来がとても影響力をもっているため、現在起きていることに注意を注ぐことが難しいのです。過去のことを処理してこなかったとか、未来に起きることを過度に心配しすぎてしまうことによって、多くの仕事が目の前にたちはだかり、現在起きていることに注意を向けられなくなってしまうのです。マリアは、神が自分自身の救い主であることを確信しており、そのことに一点の曇りもありません。
マリアは、自らと神の関係がはっきりわかっていました。彼女は自分自身が神の奉仕者であることを謙虚に受け止めていました。ここで、私たちは、最後の日が近づくにつれて、イエスがどのような意識をもっていたかを思い浮かべるかもしれません。典礼の中で、イザヤ書の四つのしもべの歌が、この意識の背景をつくっていました。パウロ:フィリピの信徒への手紙2:6-11には、神性放棄、自分を無にすることについて書かれています。愛は、相手に完全に応じるために、「自分を無にすること」を要求します。
祈りから始めるのもよいでしょう。ゲッセマネの園でのイエスの祈りはひとつの例です。マリアも同様に、ガブリエルに応える時、祈りの中で自分を無にすることを経験しました。別の言い方をすると、「忘我」です。情熱や死に関して言えば、イエスは、自由に、愛のうちに、父の意志に応えることを選びます。マリアのように、イエスは、自由に、愛のうちに、自分自身を忘れ、身を委ねることを選びます。
父は、私たちが、「忘我」を選ぶ自由、選ばない自由を尊重してくださいます。イエスも、マリアも、自由に、愛のうちに選択したために、イエスは復活によって、マリアは被昇天によって、父に受け入れられています。「今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」。天のお導きによって、聖母の被昇天の祝日を厳かにお祝いいたしましょう。