闇の中の光

カトリック平塚教会報 第108号 2017年 4月 16日発行

平塚教会主任司祭 トーマス・テハン

みなさん、復活祭を心よりお祝い申し上げます。イースターは教会の暦の中で最も大きなお祝いです。それは光の祭日と言われていますが、実際にはそれ以上のものなのです。闇を経験しなければ、光がいかなるものかわかりません。そのことは、私たちの信仰にもあてはまります。私たち自身が自らの暗闇に直面しなければ、神のみことばの光を受け入れる用意はできないのです。つまり、私たちは罪人であり、自己中心的な存在であり、神の助けを必要としていることを理解する必要があるのです。
キリストに従う者となるためには、神を生活の中心にする必要があります。神は、生、死、神の子イエス・キリストの復活によって、神が私たちの生活の中心におられることを理解させてくださいます。神のみ業はイエスを通してすでに始まっており、教会の神秘、特に典礼の祝いを通して続いています。

 

しかし私たち人間は、とかく物事を二者択一の考え方で判断してしまいがちです。例えば、正しいのか、誤りなのか、良いのか悪いのか、光なのか闇なのか、とすぐに考えてしまいます。現実ははるかに複雑です。両方が存在するということがあり、闇の中には光が存在し得るのです。イエスがたとえ話や逆説を用いておっしゃったことを、私たちがしばしば理解しづらいと感じる理由がここにあります。
自分自身の思いから脱却し、コントロールしなければという気持ちを捨て、神を心に受け入れ、聖霊を通して神のみ業を行っていただかなければ、人生は自分の周りのすべてをコントロールしようとする試みの連続になってしまいます。イエスは次のたとえ話の中で上手に語っています。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。

過ぎ越しの祝いを考えてみましょう。エルサレム入りの場面です。群衆がイエスを歓迎します。私は、「喜び」という言葉は使いません。なぜなら、その後すぐに、その同じ群衆が、イエスへの罰を求めるからです。
イエスが愛をもって弟子たちの足を洗った最後の晩餐。イエスはお互いに同じことをするように伝えました。イエスはユダに裏切られ、後にほとんどの弟子からも裏切られました。鞭打たれ、十字架を運ばされた後、罪人として非難され、十字架にかけられました。
神の子は死を迎え、私たちが神と和解するために自らを無とし、復活を待つ人々に応じるために闇の中に入っていきます。それは、ただ、闇としか見えないのですが、出来事を振り返ってみると、私たちへの神の愛のあらわれであることがわかります。
み旨が行われますようにと、イエスは祈っていました。私たちは聖金曜日に十字架を賛美します。十字架は悪と闇に対する勝利の象徴です。暗闇の中に、神の光が存在しているのです。私たちもまた、世の中に闇をみつけます。苦しみや悪は私たちの生活の一部です。多くのことには希望が持てません。そして、より多くのことに意味を求めています。
もし、キリストの死と復活が私たちの生活を変えてきたということがわかれば、私たちは喜びをもって祝うことができます。闇の中でキリストの光を迎える復活徹夜祭は、キリストのうちに、キリストを通してもたらされる変化の本質について多くを語っています。信仰の大きな神秘に触れるだけでなく、その神秘によって変化できるような心の用意を、私たち皆ができますように。

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