お祝いについて思うこと

特集 教会との出合いは神様の贈物 Part3

人はどのようにして教会と出合い、受洗へと導かれるのでしょうか。一昨年、昨年のクリスマス号に続き、平塚教会の6人の信徒に、教会との出合いと受洗への道のりをお書きいただきました。クリスマスに初めて教会を訪れた方にも、お読みいただければ幸いです。

K・・さん

今年も待降節を迎えます。赦しの秘跡の間のオルガンを弾かせていただいています。神様と私のつながりはオルガンかもしれません。

私は小学校の低学年のとき、母と二人で鎌倉の由比ガ浜教会で受洗しました。母が清泉小学校の先生をしていたので、マドレ・パウラから日本の二十六殉教者親子の名前を洗礼名としていただきました。(マドレ…スペイン語でシスターのこと)
江ノ電に乗って、夜中12:00のクリスマス・ミサに、寒い中、母に連れられて行きました。眠さをこらえるので精いっぱいだったと記憶しています。

現在の私に至るまでいろいろありました。母はずっと熱心な信者で、鎌倉から平塚へ移る折もすんなりととけこみました。教会の友達もたくさんいました。
私は高校の時、シスターがいやで登校拒否、結婚の折も主人の関係から神社でお榊(さかき)‥‥。平塚に越してきていつの間にか「ゆうれい信者」になっていました。
10年くらいたったでしょうか。たまたま息子がカトリックの学校に入り、ある信者のお母様から「あなた、信者ではないの?」と声をかけられ、ご尽力くださり、平塚教会に籍ができました。息子の学校の校長先生より10年ぶりにご聖体をいただきました。「良かったね!」の一言、今も忘れません。私にとって、これが堅信の秘跡だった気がします。
その後、小さい時から母が習わせてくれたピアノのおかげで、オルガン、聖歌隊のお手伝いもさせていただいています。その母も94歳。今は介護ホームでやすらかな余生を送っています。神父様の持ってきてくださるご聖体が唯一、神様とのつながりです。ちなみに母は聖歌のアルトをいつも歌っていました。

最後に一言。神様は決して私をお見捨てになりませんでした。これからも神様とともに平塚教会で皆様と楽しくすごしたいと思います。


N・・さん

生まれてからキリスト教と関りなく過ごしてきた私が、カトリック信者と結婚することで「回心」のきっかけをつかんだのかもしれません。しかし、生後1か月だった息子の受洗も私には意味がなく、やがてその息子が自閉症で落ち着きなく動き回るようになり、ミサのオルガン担当の妻に代わって息子を抑えているために教会に行っても、意味のわからないミサが面白いとはいえず、関心が持てませんでした。臨終洗礼で「天国泥棒」させてくれるのはかまわないが、普通に生活しているときに自分の意志で洗礼を受けることはありえないと考えていました。
大船教会ではイエズス会、レデンプトール会の司祭方、信徒の方々が、障害のある息子を心にかけ、かわいがってくださっていました。ミサ終了後は、必ず「クニちゃんのお父さん」と、皆さんが私に声をかけてくださり、やがて行事に参加するほど親しくなってきました。

40歳を目前にしたある日、日曜日の午後の聖書講座に誘われました。休日は息子の療育に役立つ過ごし方を考えて、土曜日には軽登山や10キロ程度のウォーキング、日曜日は息子の大好きなミサの後、ドライヴなどで、とにかく息子の喜ぶ顔を見ることが生活の中心になっていました。
ところが14歳になっていた息子は、横浜の若者たちのオーケストラに入り、チェロ奏者として練習に出るようになっていました。そこで、日曜日は一人でゆったりと、何か勉強しようと考えていたところだったのです。「不惑」の年齢にさしかかり、真剣に人格を高めることを考えていたときでしたから、当然、キリスト教理も視野に入れていました。考えてみると、実にタイミングよく聖書講座に誘われたものです。
1年間、三浦功神父様の聖書講座に出て、確実にキリストと出合いました。クリスマスの直前の主日に、現役のビジネスマン3人が洗礼の恵みに与りました。それから四半世紀以上が過ぎた今、毎週、家族三人で教会に通うことに喜びを感じています。


F・・さん

私と神さまとの出会いは、’わたしからすると’ 夫との結婚にはじまります。夫と離れての付き合いの中、長崎県S・・にいた私はS・・の三浦町教会で結婚講座を受けました。講座は数ヶ月あったように思います。大変厳しいお話をいただき、覚悟を持たなければならないような印象でした。結婚まで半年でしたので、受洗は結婚後に進めるようご指導いただきました。結婚後、平塚教会でお腹に長男を授かりながら藤枝シスターにご指導いただき、長男誕生の後、長男とともに9月に洗礼を授かりました。

さて、先に述べた、‘わたしからすると’ という言葉ですが、どうも神さまからすると、神さまとの出会いが結婚前からあったことに気づかされました。実家は仏教、でも私はカトリックの幼稚園に通い、毎日のように寝る前にはお祈りをしていたと母から聞かされました。高校の受験の時も、公立高校のおさえとして受験をした高校はカトリックの女子高で、校長先生であるシスターの面接のお話があまりにすてきだったので、親にその高校に行きたいとお願いしたことを覚えています。結果、公立高校に行くことが当たり前と話は終わってしまいました。

そんなに回り道をした私が、受洗後、熱心に神さまに向かって生きていたかというとそうではなかった‥‥ミサに足を運ぶにも足が重く、聖書を読んでも、自分の都合でしか考えられず、人とかかわることは大事にしたけれど、神さまとかかわることがわからない私だったと思います。
その後、私にはもう一度、神さま、イエスさまとの出会いが待っていました。
それは、乳がんという病気でした。病気になって、手術をして、それでも私は手術をして治療すれば、何とかなるものだと思い込んでいました。術後の抗がん剤治療は、点滴により様子を見ながらクールを重ねていくのが常のようなのですが、私の場合は、ステージとがんの顔つき、ホルモン受容体から、ホルモン治療とよく消化器系のがんに使われる抗がん剤との併用で行なうことになりました。
人との付き合いは大好きでいろいろなことを人から聞いていつも和を大切に生きていた私は、患者会や友人から情報を取って、みんなから抗がん治療は1クールごとに吐き気がくるけど、また楽になるから大丈夫と聞いていました。みんながんばっているから私も大丈夫と、気持ちが悪く、下痢が続いても、もう少しもう少しと我慢した結果、大腸の炎症を起こし、激痛に苦しみ、水も食べ物も受け付けられなくなってしまいました。夫は九州へ単身赴任中。義母は認知症が始まりだしたころでした。
そんなときに教会にいくと、不思議とご聖体はいただけるのです。痛くない。教会では座っていることが出来ました。神父様に病者の塗油をお願いしました。信仰は治療でもありますと、シスターの言葉がありました。再入院の中で、空が青いこと、食事が出来ること、眠ることができること、人を愛し愛されること、なによりイエス様が私とともにいること、神さまが私を愛しておられることを、ひとり病室の中で日々感じていくこととなりました。私の洗礼名は夫の叔母と同じでと、何も考えずにアガタといただいていました。アガタは胸を切り取られても信仰をつらぬかれたおとめです。
乳がんになられた友人、知人から話を聞いて欲しいと連絡が入るようになりました。今、私は、形になる活動をしているわけではありませんが、乳がんになったことを多くの人に伝えていくこと、早期発見と早期治療を若い方をはじめ多くの人に伝えていくことが必要だと思うようになりました。
祈りは、神さまとの会話であり、会話である祈りなくして生きていけない。神さまはいつもいっしょにいると感じるようになりました。神さま本当にありがとうございます。


S・・さん

私がキリスト教と出会うきっかけになったのは、元々カトリック信者で幼児洗礼を受けた妻と出会い、平塚カトリック教会で結婚式を挙げたいと決めた時でした。私はごく一般的な日本の家庭で育ち、当時、特に何かを信仰していた訳ではありません。
とにかくキリスト教に関する知識もなく、何も想像がつかない中で、結婚講座が始まりました。神父様やシスターと聖書を読み進めていく中で、厳かな雰囲気の中でのお祈りや、神様の恵みに触れ、無償の愛を知り、信仰による繋がりにより段々と心が満たされていくことを知りました。
そして、この結婚講座を受けたことがきっかけで、受洗する事を決意しました。その後、結婚式を挙げる際には、共同体の方々の多大なる協力を得て平塚カトリック教会で晴れて結婚式を挙げさせて頂くことが出来ました。
本当に共同体の皆様には感謝しており、幸せの中で、神様の恵みを頂けるきっかけを作ってくれた妻には感謝し切れません。これからも家族の中で神様の愛を感じ、愛を与え、感謝しながら日々の生活を過ごして行きたいと思います。マザーテレサの言葉で結婚当時より現在も心に残っているものがあります。

思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい。それはいつか運命になるから。

現在の自分の家庭内での行動に関しても、とても心に留めておくべき言葉ばかりではないでしょうか。
私は学生時代、カナダに留学していたことがあり、空港から街中までタクシーで向かう車中でドライバーよりいくつかの質問をされたことがあります。どこから来たのか、何をしに来たのか、カナダは何度目かなど、最後に質問されたのは、宗教は何なのか。その時私には信仰というものは特になく、無宗教であると答えました。すると彼は「そんなに辛い人生はない」と言い、私は予想だにしない返答に、ただただ苦笑いするだけでした。
しかしながら結婚し、受洗の後またカナダに訪れる機会があり、ジャスパーという場所でカトリック教会を訪れ、御聖体を頂きました。言語は違えども、そこでは日本と全く同じミサが行われ、カントリーミュージック調の聖歌が流れ、お知らせがあり、お茶会があり、声をかけてくれる人々がいて、信仰による繋がりの大きさは国や人種、言語を超えて根付いており、同じなんだなぁ、もっと早くカトリック信者になっていればよかったと、強く思ったのを覚えております。現在は息子、娘に恵まれ、親が唯一出来ることとして、彼らのために信仰を伝えてあげたいと思います。


M・・さん

あれからどれくらいの月日が流れたのでしょう。今、改めて思い返すともう6年、いや7年近い年月が経とうとしています。その頃の私は家族の病気を受け入れる事が出来ず、苦しみの中におりました。何故。どうして。思ってもいなかった事。どうにかしなければ。でもどうにもならない‥‥。自分にどうしてこんな事が。この気持ちを何処へ持っていけばよいのか‥‥。その様な思いにずっと捕らわれて過ごしていました。

そんなある日、パンを買おうと思い、車を教会の前に停めた時、まるで身体が教会の掲示板に吸い寄せられる様に近づいて行くと、そこには水曜会のお知らせが出ていました。
自分を見つめて‥‥。そんな表題だったと思います。
「この会に出てみようかしら。でもキリスト教とは縁もゆかりもない自分などが参加してもいいのだろうか」
そんな思いを持ちながらも、数日後の水曜日に初めて教会を訪れたのです。家族、親族、友人、知人、私の周りには誰一人、クリスチャンの者はおらず、外国での観光で教会を訪れた事はあっても、日本の教会の敷地に足を踏み入れたのは初めての事だったのです。

それからのほぼ一年半。ほとんど休まず、水曜会に通いました。自分の中の何かに出会いたい、本当の揺るぎない何かに出会いたい‥‥。そんな思いが毎週、毎週、私を教会に通わせたのかもしれません。
でも毎回、談話室に通わせて頂きながらも、神様の事、イエス様の事、キリスト教の事は何も分かっていない自分、クリスチャンになる事など考えた事もなかった自分。こんな自分は簡単にお聖堂に入るべきではない。簡単にイエス様に近づくべきではない。そんな思いがずっとありました。
でもある日、家での祈りの中で、突然、お聖堂に入れて頂こう、お聖堂に入れて頂いてもいいんだ、との思いが沸き上がって来ました。すぐに車を走らせ、教会に駆けつけ、扉を開けた時、「よく来たね。待っていましたよ」という声を聴いた様に思いました。そして何の涙かわからぬ涙が止めても止めても溢れ出てきたのです。
その時、これからの私はこの中で生きていきたい。ここを離れてはいけない。洗礼を受けさせて頂こう。この思いをはっきりと持つ事が出来たのです。そして2012年4月に洗礼を受けさせて頂きました。

受洗後、時を経ずして、夫の突然の死という、信じられない出来事にも見舞われましたが、病気も死も頂いている丸ごと全部が今の自分という、以前とは正反対の自分に変えて頂き、感謝の中で過ごさせて頂いている事を本当にありがたい事と思っています。


M・・さん

皆様こんにちは。昨年4月に妻と共に洗礼を受けましたパウロM・・と申します。59歳での大変遅い入信となりますが、よろしくお願い申し上げます。

私は仕事柄、海外での生活が20年以上に亘り、欧州、アフリカ、北米、アジアと勤務してきております。特に途上国では経済援助に携わり、地方の生活水準を向上させるため井戸や水道の建設、教育支援のための学校建設、食糧増産の支援のため働いておりました。
アフリカはそもそも日本のように食料や物資がふんだんにありません。また、水道や電気も度々止まり、医療施設も十分な対応ができるものがありませんので、大変不便な生活を強いられることになります。当然のことながら、年収300ドル以下で生計を立てている人々も沢山います。それでも、毎日を明るく過ごしている人々がいることを仕事を通して知りました。日本や先進国に住めば、物的に何不自由なく、安心して穏やかな生活を営んでいけると考えがちですが、さにあらずです。厳しい社会環境の下でも、立派に目を輝かせて生活しています。

2011年2月に西アフリカのブルキナファソを訪問し、更に北東のマリ、ニジェールとの国境まで向かう途中、砂漠の中に中世が起源という土を泥で固め建てられたイスラムの寺院を見つけました。許可を得て内部に入ると、奥でお年寄りが壁に背をもたれかけお祈りをしており、その老人が非常に穏やかな眼差しで私を手招きしてくれ、私も暫しそこで休息を取りました。この時、厳しい環境の中では信仰は人に命と希望と安らぎを与えると知りました。

また、アフリカ中部にあるカメルーンの奥地を切り開いてキリスト教徒の村を造られた神父様の所で一泊したことがあります。フランス人である神父様は25年以上もこの村に滞在しており、以来一度も帰国したことはないとのことでした。事の発端は、カメルーン人が法王庁に神父様の派遣を要請し、ローマ教皇の命を受け赴いた由で、神父様はこの村に骨を埋めると仰っておられました。私は本当に厳格な命令と驚きましたが、神父様から穏やかで温かいものが流れているのを感じ取りました。

こうして、日本に帰ってみますと、日本は経済的に不景気にあるというものの、物資は溢れ、生活の危機的な危険は皆無で安全な生活が保障されて、皆幸せであるように思えます。他方、街行く人々の目は幸福に満ちているようには見えません。途上国の人々のように顔に表情がありません。生活環境は安全であるが、社会、組織と構成する人同士が厳しく束縛し、心の自由を奪っているのかも知れません。
今の多くの日本の人の心の中には神様は存在しないかも知れません。目に見えるものに束縛され、苦しんでいるのかも知れません。私は帰国後、思いがけずテハン神父様とお会いすることができました。神父様は頭(知識)に頼らず神様を信じることが大切と仰いました。そのお話を伺い、先にお話ししたアフリカで経験した、どのような厳しい環境の下でも穏やかな眼差しで生きていくことができる人となれるかを示して頂いた気が致します。テハン神父様が開いて頂いた扉の隙間から、光が差し込んでいるのがわかります。またその扉は大変狭いと思いますが、一歩ずつ進んでいきたいと思います。