神の愛に包まれて

カトリック平塚教会報 第112号 2018年 12月 24日発行

平塚教会主任司祭 トーマス・テハン

この一年、私たちは、戦争による破壊、荒廃、そして、多くの人々の予測をはるかに上回るようなできごとを経験してきました。最も傷つきやすいのは、最も苦しみを受けた人たちです。しかし、将来への希望が生まれるのは、この苦しみの真っただ中にある時です。私たちがよく知っているクリスマスのストーリーは、現代にも生き続けているように思います。神の子の受肉は、永遠に続くプロセスであり、生きとし生ける者は、この偉大な神秘に夢中になります。私たちはしばしば、この神の子の降誕を、二千年以上前に起きた一度限りのできごとと考えますが、それは真実の小さな一部分であり、真実の全体像はもっと深いものです。

イエスは、お生まれになることによって神を表すものであり、人間の弱さや傷つきやすさを持ち、すべての人のために生涯をお捧げになりました。イエスは弟子たちにたずねました。「人々は、私のことを何者だと言っているか」。すると、ペトロが、「あなたは、メシアです」と答えました。イエスは、その意味を明らかにするために、次のように言われました。「人の子は、苦しみを受け、長老、司祭長、律法学者たちから排斥されて殺され、3日の後に復活する」。イエスは、私たちを含めた、生きるものすべてのために、愛によってそれを行ないました。私たちは、この真実をなんとか理解することはできますが、現在へと続くこのプロセスを、父と聖霊の両者が果たしている役割と結びつけて考えることは難しいのです。

父は、愛をもって、子をこの世に送るもの、また、聖霊はイエスの受胎から父のもとに帰るまで関わるものとして考えられています。私たちの目には見えないため、父と聖霊と私たちの関係について理解するのは難しいことです。キリストとの間には、私たちは聖体拝領によって育まれた「関係性」を見いだすことができます。理解しづらいのはギリシャ哲学の影響によるものです。ギリシャ哲学では、「関係性」よりも先に「個」を考えるからです。「ひとつのもの」と「多くのもの」では、「ひとつのもの」を先に考えます。これを、三位一体にあてはめてみると、私たちは、関係性よりも数学的な捉え方を優先させて三位一体を考えてしまいます。

現代の科学は、「個」よりも「関係性」を重視します。「関係性」のなかで生まれる力によって、物事は見えるようになります。三位一体を見てみると、神は何者でもなく、父、子、聖霊の関係の中にあります。言いかえれば、父は完全に愛によって自分自身を子に与え、子は聖霊をともなって、完全に自分自身を父に与えます。三位一体とは表面的な見え方ですが、それ自体、生きるものすべてに、惜しげなく与えるものです。あなたも私も、その愛を現すものです。なぜなら、私たちは神に似せてつくられたのですから。ところが、私たちは、自分自身や生き物すべての中にある神のイメージを否定し続けてしまうために、理解しづらくなるのです。神は、創造物を生み、愛し続けます。悲劇や破壊があったとしても、永遠に続く関係の中でキリストのうちにひとつになることが、私たちの願いです。

私たちは、父と聖霊の業を見ることはないかもしれませんが、心をひらけば、関係性を意識することによって、その愛を経験することができるかもしれません。特に、真、美、善にかかわる経験を通して。このクリスマスに、私たちのうちにおられる神の顕現を、皆さんとともに共有することができますように。
フランシスコ会修道士のRichard Rohrによる「三位一体の祈り」の一部には、次のようにあります。

私たちのための神、それは父。
私たちとともにある神、それはイエス。
私たちのうちにある神、それは聖霊。
 神よ、あなたは、すべてのものに力を与え、包み込み、
 生き生きとさせてくださる、永遠の神秘です。
 私たち、そして私自身をさえも。