主の祈りは「祈るときにはこう祈りなさい」とイエスご自身が弟子たちに教えた祈りです。(マタイ6章9~13節、ルカ11章2~4節)
「主の祈り」は信仰生活の根本です。福音を要約しています。この祈りを理解できたとき、四福音書をすべて理解したといえるほど、完璧な祈りと言われています。
「主の祈り」はお願いの祈りです。願い事というと良いイメージはないようですが、苦しいときや自分の力の及びそうにないときに祈らなくてどうするのでしょう? 神のみ心にかなうように祈ればいいのです。絶対的な信頼をもって祈りましょう。


はじまりは 天におられる私たちの父よ

この「父よ」と訳されるところをイエスは「アッバ」と言いました。子どもが父親を呼ぶときの言葉ですから、日本語で「お父ちゃん」というところでしょう。
旧約聖書では近づき難い神だったのに、主の祈りでは憐れみ深くやさしい神です。アヴィラの聖テレジアは「お父ちゃん」として神と関わり、フランシスコ教皇もテレジアにならっているそうです。
わたしたちの交わりが、唯一の聖なる霊のうちに、おん父とおん子イエス・キリスト、つまり至聖なる三位一体と共にあることを宣言しています。わたしたちは、おん父に祈るとき、おん子と聖霊とともに、おん父を礼拝し、栄光を帰すのです。
次に「お願い」が続きます。

お願いその1 み名が聖となる

神様のお名前が「聖」となるということは、人々が父を愛し尊敬するようになるということです。悪と不完全に支配されたこの世界を平和へと回復させるためには、清い心で神を尊敬することが必要です。それには「隣人愛」を実行することです。この守るべき掟がはたされたとき、神の栄光が現れるのです。

「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(レビ記19章2節)

その2 み国が来ますように

神が王となり、支配する国を求めます。欲で人々を支配せず、愛で治める神を王として迎えるとき、神のみ国が実現します。

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい‥‥隣人を自分のように愛しなさい」(マルコ12章30~31)

これを掟として守れば神のみ国は遠くない。

その3 みこころが天と同じように地にも行われるように

神が私たちを愛したように、互いに愛し合うこと。このことが天国において実現しているように、地上においても実現することを願い求めます。

「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(Ⅰテモテ2章4節)。

神は「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」(Ⅱペトロ3章9節)

私たちが神のお心を生きることができるようになる日を、神は忍耐強く待っています。

その4 日ごとの糧を今日も

生きる上で必要とする霊的な糧と食物を「お与えください」。これは契約の表現です。「今日」というのは、猶予がないほど必要としているので、切実にお願いしているのです。
私たちが聖霊によっていただく「み言葉」と「聖体」に養われ、神によって生かされているという悟りでもある祈りです。また、飢餓に苦しむ人に対しては、イエスの愛の業を行う義務と責任が私たちに課せられているのです。この祈りはその原動力にもなります。

その5 罪をおゆるしください 私たちもゆるしますから

私たちは罪を犯し、神に背いてばかりであることを自覚するべきです。赦されるためには赦さなければなりません。放蕩息子(ルカ15章11~32節)のように、父なる神のもとにかえり、自分が罪人であることを認めることです。先に神が私たちを赦してくださっている、その愛を知ることです。罪の赦しはすでにあるのです。

その6 誘惑におちいらせないでください

弱さ、心の貧しさからくる罪が赦されるように願います。閉じこもらず、教会外の人に心を開き、自己のもろさを知り、神に支えていただくのです。

その7 悪からお救いください

この世の「肉と霊との闘い」に巻き込まれないように、識別し、正しい方を選択できるように願い求めます。神は私たちに自由意思を与えてくださっているのですが、サタンが判断を誤るように誘惑しています。聖霊の助けなしでは道を誤ってしまう自身の弱さを自覚しましょう。