カトリック平塚教会報 第104号 2015年 12月 24日発行
平塚教会主任司祭 トーマス・テハン
毎年、クリスマスの準備というと、私たちはクリスマスカードや贈り物の用意を思い浮かべます。商業化された現代のクリスマスは、グリーティングカードや贈り物を用意するための新しい方法について、あれこれ提案してきます。
私たちは年をとると、クリスマスの準備を何とか簡単にすまそうとしますが、それはなかなかうまくいきません。うまくいかないのは、誰かから思いがけない贈り物をもらって、驚かされるからです。クリスマスを祝うすばらしさは、実はそれが思いがけない贈り物だからなのです。その意味を少し考えてみましょう。
私たちは贈り物という言葉の理解においてさえ、商業化された世界から大きな影響を受けています。贈り物とは、今必要なものや欲しいものを手に入れることだと考えてしまっているからです。このようなえ方は、より多くのものを手にしたいという欲求を増大させます。それはビジネスにとってはよいことですが、多くの人々を買い物中毒にしてしまいます。私たちは若い時からずっと、このような考え方に染められてきているのです。
子どもたちにご褒美を与えて、よい子に育てようとする親の気持ちを、私たちはみな知っています。この方法には、子どもたちから良い振る舞いを引き出すという肯定的な面もありますが、反対に、振る舞いのよくない子どもたちを受け入れないという否定的な面もあります。いいかえれば、いい子であれば愛し、いい子でなければ愛さないということになります。
私たちがクリスマスのことを考える時には、ご褒美や罰のことはしばらく忘れて、愛と純粋な贈り物という枠組みの中で、クリスマスを見つめ直す必要があります。神はすべての人々を深く愛しておられたがために、御子を世にお送りになったのです。
神に前提条件はありません。神は見返りを期待することもありません。神は子に頼られる親のようなやり方で、贈り物を送ってくださったのです。それは、真に純粋な贈り物であるだけでなく、人間が反対したり拒絶したりする余地を残した、神の傷つきやすさを表わした贈り物でもあるのです。そのような贈り物だからこそ、2000年以上も前から神の御業として、キリストの死と復活をとおして、今も与え続けられているのです。
神は私たちに大切な贈り物を与え続け、それを受け取った人たちを神の息子や娘としてくださるのです。私たち一人ひとりが、こうした神の神秘の前に立つことこそが、私たちが望むすべての贈り物を超えた本当の贈り物なのです。
この贈り物の中の贈り物のことを思い浮かべる特別な時期に、私たち皆が、神が私たちにしてくださっていることを謙虚に受け入れることができますように。