特集 幼児洗礼を授かって
カトリックの教会に来ている信徒の中には、小さな子どもの時に洗礼を授かった信徒と、大人になってから洗礼を受けた信徒がいます。今号では、平塚教会の信徒で幼児期に洗礼を受けた5人の方に、自らの教会との関係を振り返っていただきました。クリスマスに初めて教会を訪れた方にも、お読みいただければ幸いです。
A・・さん
1933年8月15日、横浜若葉町教会(空襲で焼失、現・末吉町教会)にて乳児洗礼を受けました。
私の家は、祖母の代からカトリック信者で、従姉たちもみな信者でしたので、教会に行くのが当然の生活でした。
父が早くから病床に就き、療養しておりましたので、ひとりで留守番をすることも多く、寂しい時はロザリオを唱え、カトリック聖歌482番や484番を口ずさんで支えられていました。
日曜日はごミサのあと、シスターのお話を聴き、マリア会のお姉さまや青年会の方々が一緒にゲームをしたり、鬼ごっこをしたりしてくれて、楽しく過ごしました。
やがて戦争が激しくなり、他国の宗教であるということで、近所の友人が少しずつ離れていきました。クリスマスの夜中のミサの帰りには、交番で呼びとめられたこともありました。
空襲で家は全焼し、横浜を離れ、山形の米沢に疎開しました。
終戦後、逗子に移転。そのころ、民家を借りた逗子教会ができ、1950年2月19日、初代カリネン神父様より堅信の秘蹟を授けていただきました。
幾年も経て、平塚教会に移籍。婦人会のボランティアで、現在のふれあいデイサービスのお手伝いをしていたところ、ブランチ神父様が、「50年続いてきたレジオマリエの火が消えそうです」とお話になられて、これはいけないと思い、レジオマリエの集会を訪問しました。そこで3カ月の試みの期間を経て、2001年10月、レジオマリエの誓約をさせていただき、未熟ながら現在に至っております。神さまはいつも私たちを見守っていてくださいます。
高齢ですので、皆さまにはご迷惑をおかけすることと思いますが、今後ともよろしくお願いいたします。
T・・さん
私が洗礼を授かったのは、生後3日目のことだったようです。教会は長崎の田平教会でした。すこしだけ自慢をしますが、この田平教会は、潜伏キリシタンとの関連性があまりないとの理由で世界遺産にはならなかったものの、大正7年中田藤吉神父様のご指導もと、鉄川与助を棟梁にして、レンガ造りの天主堂を持つ、長崎教区内でもとても美しい教会だと思います。
私は4歳ぐらいの時に、両親の仕事の都合で、当時炭鉱で栄えていた大加勢教会に転入することになりましたが、そこでもカトリック式のスパルタ教育は続き、教会、御ミサは絶対的なものでした。私は先祖代々からのカトリックの家で、子どものころから、厳しく教会を真ん中においた教育を受けてきました。両親からも、「学校の勉強はできなくていいから、そのかわりに教会のことはしっかり勉強してこい」と、言われるくらいでした。そういうことで公教要理はまる一冊暗記させられました。当時この教会には子どもが30人ぐらいいましたが、私はがんばって、上から4、5番目の成績をとっていました。大加勢教会では、青年部長になって、佐世保に行っては他の教会から集まってくる信者さんと、野球やソフトボールをして遊ぶことができ、多くの人と知り合うことができました。
洗礼を授かって85年になりますが、教会や自分の両親からいちばん学んだことは、自分がいただいたものをいかに使い、教会のため、世の中のために還元していくかということです。これからも私は、そのことを考えながら信仰生活を送っていきたいと思います。
D・・さん
洗礼を授かったのは、生後一週間後のことだったと聞いています。昔は、それが風習だったようです。洗礼を授かった教会は、佐世保の浅子教会です。
祖父とその兄弟は黒島教会の、当時の「女部屋」、今の「お告げのマリア修道会」で洗礼を授かったとのことです。でも他の祖父の親戚は洗礼は受けていなかったとのことです。その信仰を両親も引継ぎ、今に至っています。子どものころは、私のうちの近くに母方の親がいて、毎日の朝6時の御ミサに「行くぞ、行くぞ」と、毎朝私のうちに呼びに来ては、皆をひきつれて教会に行っていたものです。
「好きで信者になったのではない」、「勝手に洗礼を受けさせておきながら」と、中学生のころ私が母に反抗すると、ほうきでたたかれたりして、よく叱られたものでした。
村中がカトリックで、仏教の人はいなかったので、そんな生活が当たり前だと思っていました。子どものころは、やっぱり公教要理を一冊丸暗記させられました。もしできないと、うしろに立たされたものです。ものすごく厳しかったのをよく覚えています。大人になって、「まるでどこかの新興宗教のように、洗脳されてしもうた」と友達に愚痴ると、「全然違う、そこらへんの新興宗教なんかと一緒しないで」と言われました。(笑)
洗礼を授かって、72年の間、私は特に教会を離れたことはありません。それが当たり前と思ってずっとやってきました。それが子どものころからの教えでした。昔の神父様はみな厳しく、教会に着ていく服装も、ふくらはぎがかくれる長さのスカートを着てくるようにと言われ、裸足もだめでした。また、言葉づかいにもとても厳しくされたのですが、私の男勝りの性格があだで、よく神父様にお説教されたものです。
カトリック信者としてずっとやってきて、教えられたことは、「我慢しなくてはならないこと」、「他人には良くしてあげなければならないこと」、「自分が罪の意識をもつこと」、「人を赦すこと」そして「祈ること」です。
だからこれからも、私はこの教会で、神様に寄り添って、ただ静かに祈り続けていければそれで幸せです。
N・・さん
洗礼を授かったのは小学校低学年のころだったでしょうか。私の両親は長崎の出身で、私は満州で生まれ、6人兄弟で私より上の兄弟は長崎で洗礼を授かったようですが、私は平塚教会で洗礼を授かりました。私の父親は先祖からのカトリックの家系で、両親が結婚するときは、男性も女性もカトリックの洗礼を受けていなければ結婚できなかったため、母親も洗礼を授かることになったようです。
平塚教会に初めて赴任された神父様は、コロンバン会のバーク神父様とおっしゃる方で、軍艦みたいな大きな靴をお履きになり、身長も2メールを超えるような大きい方で、少し前のジャイアント馬場みたいな感じでしたでしょうか。やはりアイルランドのご出身で、お国柄といいますかサッカーが上手な神父様で、サッカーボールを勢いよく高く蹴り飛ばしては、子どもたちとよくいっしょに遊んでいただきました。
私は、日曜学校に行くのがいやな時もありました。信者ではない友達とせっかく楽しく遊んでいるところに、母親から「時間だよ、行っておいで」と言われるので、仕方なく行っていたこと覚えています。
昔は教会(お御堂)内での作法が厳しかったため、祭壇のまわりは、神父様と待者以外は絶対入ってはけないと決められていました。そしてお御堂はお祈りをする場所なので、お御堂に入ったならば、無駄なおしゃべりはしてはいけません、おとなしくしていなさいと、よく両親から言われていました。
私は大人になるまで、教会から離れたりとか、遠ざかったりということはありませんでしたが、結婚して子どもができ家族が増えると、子どもたちの世話のために、やむを得ず教会を休むことがありました。そんなとき、上の娘だけが教会に行って、「パパはずるい、パパばっかり教会を休んで‥‥」と、まわりの大人の方に言っていたそうです。
私は今、カトリックの信仰を振り返り、少しずつではありますが、神様の国に近づけていると実感できるようになったと思います。
M・・さん
カトリックの家庭に生まれ、生後一週間で受洗しました。早いと思われるかもしれませんが、兄と姉はカトリック系の病院(聖ヨゼフ病院)で生まれたので、生後2、3日で洗礼を受けています。
受洗してから3歳まで長野県の諏訪教会にいました。その後、雪ノ下教会に移り、小学生で逗子教会に変わりました。
公立の小学校では、まわりにキリスト信者はいなかったと思います。学校で信仰について話したこともありません。
社会人になり、会社の同僚でフランス文学を研究している人と出会い、キリスト教思想やカトリシズムの知識がないと仏文学は理解できないというので、聖書の解説をしたり、資料を貸すことで、必然的に信仰を表明していました。
58年間の人生で、一貫して教会には素直に通いました。何ひとつとして疑問を抱いたことはありません。教会に行く生活が幸運をもたらしたと思ったことはあります。それは、教会で結婚の相手と巡り会ったことです。
出会いは藤沢教会におけるチャリティーコンサートでした。ルワンダで活動する吉田真美さんを支援するという趣旨でした。1990年代、ルワンダの大虐殺で多くの死者が出ました。生存者も障害を負い、義足を必要とする人が続出しました。そこで吉田真美さんは、日本の義肢制作技術をルワンダに持ち込み、人々が現地で義足を制作する工房を設けたのでした。ルワンダの問題に関心を持っていた妻は、吉田さんの支援者たちのひとりでした。
カトリックの家庭に育ったので、祈りが生活の根底にあります。世界の平和を願うのも日常のことです。
吉田真美さんは著名な方ですので、原文のまま掲載しました。