慈しみ

カトリック平塚教会報 第105号 2016年 4月 1日発行

平塚教会主任司祭 トーマス・テハン

四旬節は、イエスの受難、死、復活をともにすることで、気持ちを新たにするように求められている時期です。聖書には、四旬節の過ごし方として、祈り、断食、慈善の行いなどがあげられています。私も子どものころに、お菓子やキャンディーを我慢したり、何も買い物をせずに節約したりした思い出があります。苦行と禁欲の時期だったのです。特に全寮制の学校では、もともと食事が質素だったので、四旬節の断食、節制は容易なことではありませんでした。そんな中、聖パトリックの祝日はお祝いの日であり、四旬節の節制から解放される日でした。

四旬節の終わりはとても待ち遠しくて、あと何日で終わるか数えたりしていました。
四旬節の節制は、心と体の健康のためにも良いものでした。その焦点が変化してきたことを除けば、四旬節の意味は今も昔も変わりません。働いている方々にとっては、断食は難しいかもしれませんが、重要なことは、四旬節がこれまで引き継がれてきた伝統であり、今も変わらずに迎えられているということです。おそらく、違いを理解するための近道は、告解と、今日ゆるしの秘蹟と呼ばれているものについて、よく考えてみることだと思います。

私が小学生のころ、毎週金曜日になると、告解のために教区の教会に連れて行かれたものでした。告解部屋で告白を聞いてくださる司祭は5人いました。ご想像のとおり、告白のリストはほとんどの場合今とあまり変わりません。告解を済ませて、週末、学校から解放されると、本当にほっと安心したものです。その経験を後悔する気持ちはありません。罪の告白から罪のゆるしへと、焦点が移ってきたなと感じるようになったのは、後になってからでした。
それは、飴と鞭という考えと少し関係があると思います。いい子にはご褒美を、悪い子には戒めを、親はとても自然に与えます。神も同じであると私たちは考えがちです。イエスはその生涯を通して、迷える私たち、はぐれてしまった私たちを探し求めてくださる、愛にあふれた、あわれみ深い神のイメージを与えてくださいます。イエスご自身も、神の国へ迎え入れるため、罪人を探し求めてくださいました。実際にそれが神の意志を行うイエスの使命でした。

イエスは、祈り、断食し、愛に満ちた行いをなさいました。祈りを通して、イエスは神の愛を実感しておられました。ヨルダン川でヨハネから洗礼を受ける時も、祈り、天が開き、聖霊が降りてきて、「これは私の愛する子、私の心に適う者」と言ったのです。イエスの威厳を認めたのです。イエスは人々のありのままを受け入れ、深い愛とあわれみをもった、慈しみとゆるしに満ちた神の姿を人々に示してくださいます。

私たちも、お互いに祈りを捧げ、神に私たちの心を変えて癒していただければ、悔い改めを通して神のもたらす平和に心を開くことによって、イエスのようになることができるのです。祈りは、神と私たちの関係を深める助けとなります。断食は、私たちが自分自身との健康的な関係を維持するための助けとなります。慈善の行いは、他の人々に対してあわれみの気持ちをもって心を開くための助けとなります。神の愛に満ちた優しさと慈しみを経験することができれば、私たちは、愛と慈しみ深い天の父のように変化していったイエスの受難、死、復活の中へと、自由に、深く入り込むことができるのです。

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