神はわれらと 共にいます

特集 教会との出合いは神様の贈物

人はどのようにして教会と出合い、受洗へと導かれるのでしょうか。この特集では、平塚教会の7人の信徒に、教会との出合いと受洗への道のりを語ってもらいました。クリスマスに初めて教会を訪れた方にも、お読みいただければ幸いです。

H・さん

神様との出合いは、N・・高等女学校在学中でした。
はじめはシスターのお話を聞いても信じることはできませんでした。しかし茅ヶ崎教会で御ミサに与り、祈っていると、信仰とは勉強ではない。「祈り」だ。そう思ったのです。神様から信じる力をいただいたとしか思えない瞬間でした。信仰とは知識ではなく、祈りとミサによって、神と出合うことだと思いました。聖書の勉強とは、知識を得るために読むのではなく、聖書の心を知ることなのです。
当時はまだ平塚には教会はなく、レジオ・マリエの方5、6名の尽力で、まず誰かの家を仮の教会として始まり、やがて今の場所にできたのです。最初の平塚教会の受洗者は主人(H・・さん、2002年帰天)でした。今では親族総勢32名がカトリック信者という恵みに与りました。
昭和25年11月18日。茅ヶ崎教会における(正式には21日の)「マリアの奉献の祝日」のミサで洗礼を受けました。高校3年生の18歳でした。父は反対したけれど、全能の神が何とかしてくださると信じました。21日に学校でその祝日のミサがあり、また初聖体を祝っていただき、神父様に言われました。
「あなたは2回も初聖体を受けたのだから、聖人になる」。(談)


N・さん

『あなたの若い日にあなたの造り主を覚えなさい(コヘレト12;1 )』・・・って、親が教えてくれないときは、どうしたらいいのですか~?
などと言うまでもなく・・・
無宗教を公言してはばからない両親が、私をカトリック系の幼稚園に入園させてくれたのは、目と鼻の先、徒歩2、3秒の距離だったからです。従って神との出合いは5歳です。園児はときどき修道院の小聖堂に入れてもらえました。沈黙を守り、静かでほの暗い空間でお祈りするときが無上の喜びだったのを記憶しています。
その修道院の経営する学校は、小学校から上は電車で10分以上かかるところにあり、私は行くことはできませんでした。両親が「学校は家から近いのが望ましい」と考えていたからです。ところが数年後に転居すると、家から一番近い学校は、なんとカトリック校でした。お聖堂があるので感動しました。
生徒は皆、シスター方が大好きで、尊敬していました。ある日、校長様の執務室に行くと、机の上に雑然と卒業アルバムが数冊、開いたままになっています。卒業生を一人残らず祈るためだったのです。「この方たちと同じ信仰を持ちたい。確実に神に行きつくから」と、心に決めました。
両親の反対のため、シスターに20歳まで洗礼を待つようにいわれ、そのつもりでいましたが、どういうわけか、1972年12月8日「無原罪の御宿りの祝日」に19歳で受洗できたのでした。母もごミサに来てくれました。神様、私を招いてくださってありがとう、と、思い出すたびに感謝の祈りを捧げます。


N・さん

私は父からの影響でキリスト教と出合いました。岡山県の田舎の中学校の教師をしていた父は、あるとき、生徒たちの英語暗証大会の講評者として、地域で数少ない外国人だったノルウェー人の宣教師を学校に招きました。その宣教師の影響で父はプロテスタントのルーテル教会の信者になり、やがて母も大学生になった私も入信しました。やがて私は、就職して神奈川県に住むようになりましたが、同じ北欧系ルーテル教会がなく、まわりの教会は雰囲気が違って馴染めませんでした。そんなこんなで教会から足が遠のいてしまいました。
ところが私が40代になったころ、母からの手紙に、父も母もカトリックに改宗し、家の墓もカトリック墓地に移したと書いてありました。父が以前から、たびたび長崎に行き、キリシタン関係の本をそろえていたことは知っていましたから、それほど驚きはありませんでした。ただ、家の墓まで移しましたので、長男である私もいまのままではいけないなと思いました。そして、まずはカトリックについて知っておこうと考えて訪れたのが、カトリック平塚教会でした。
平塚教会に来てみると、なぜかしっくりと馴染むものを感じました。カトリックでは、詩篇の独自訳が素晴らしく、典礼聖歌や祈祷文として使われていることや、毎日の典礼で読む聖書の箇所を定めた「聖書日課」が、カトリックでは非常に体系的にできているところも気に入りました。やがてシスターF・・の勉強会に参加するようになり、1991年の復活祭にカトリックに改宗するお恵みをいただきました。(談)


T・さん

私は、U・・市の出身です。
私が初めてカトリックの教会に出合ったのは、中学生の時でした。私の家族は、普通に仏教の家でした。さらに言えば、祖母が先祖の仏様をとても大切にしていて、子供の頃はそれがあたりまえでした。(現在も母は、それを引き継いでいます。)
そんなある日、父が突然「今からU・・の教会の掃除に行くぞ! お前も一緒に来い」。私はとっさに、「親父、なんば言いよっと?」。自分達はカトリックの信者でもないのに、部外者がだいたい教会なんかに出入りできないんじゃない? 私の父はまだしも、自分と、この日一緒に行く姉も、当然教会のマナーもさっぱり知らなかったですから。でもなんとなく誘われるままに行ってしまいました。
当時、完成したばかりの「カトリックU・・教会」は、敷いたばかりの絨毯が、スリッパを履くのももったいないぐらいにふわふわしていて、また祭壇の赤い絨毯は目に鮮やかに綺麗なものでした。もちろん「祭壇には絶対にあがるなよ」と御触れがでていました。それまでに私の父は、U・・教会建設のために、地元の方々と教会を建設される皆さんとの取り持ちをしていたので、建設後の教会のお世話も少しばかりお手伝いしていたのです。
この日のことが、後の自分とカトリックとの出合いのきっかけとなりました。高校をカトリック系の学校に通い、その後、浦上天主堂下にあるカトリックセンターのレストランで仕事をすることになった私は、川原神父様はじめ多くの神父様との出会いがあり、30代半ばに洗礼を受けることになりました。そして今は、何故か平塚教会にお世話になっております。


M・さん

初めて教会に行ったのは、小学校低学年の頃です。テレビで「大草原の小さな家」や「赤毛のアン」を見て、そこに出て来る、日曜日には家族みんなでおしゃれして教会に行くシーンが、私の中でブームになっている時に、教会に誘ってくれた友達がいたんです。たぶん牧師さんの娘さんだったと思うのですが、一緒に日曜日に通い始め、すてきな雰囲気の中で歌ったり、クリスマスを過ごしたことを覚えています。
ただ、それはほんの一時期で、その後は教会には行かなかったのですが、なにかいつも神様がそばにいるという感じはありました。いつも母から、「誰もいないところでも、神様は必ず見てるからね」と言われて育った影響もあったと思いますが、何か困ったことがあったりすると、神様にお祈りしていたように思います。あと、不思議と私の行く先々に、教会があったんです。

いまから20年前に結婚して、この教会の隣りに越してきたときも、「あっ、やっぱり教会がそばにあるんだな」と思いました。それからは、ひとりでこっそりお祈りに来たり、子どもが産まれてからは毎年クリスマスのミサにあずかった後にビーフシチュ―をいただいたりしていました。
そんな感じで、ある日、聖堂正面のキリスト像になんとなくお祈りしていたら、「もうちょっと近こう寄れ」と言われたような気がしたんです。それでどんどん教会のなかに入っていくようになったら、ここが私にとっての憩いの場のような気がしてきました。そんな時、シスターN・・から、「毎週水曜日に分かち合いをしているのよ。参加してみたら」と声をかけていただいきました。
行ってみたらそれがすごく面白くて、そのうち「洗礼」というものがあることを知って、半年ぐらい、より自分と向かいあった末に、2011年の復活祭に受洗させていただきました。それはちょうど東日本大震災の年で、大きな苦しみの中で受洗のお恵みをいただいたことに、何か意味があるのではないかと感じています。(談)


A・さん

はじめての出会いは、私がまだ幼稚園に通っていた頃のことです。その幼稚園の先生が、カトリックの信者さんでした。私はまだ4、5歳で、通っていた幼稚園も、特にカトリック系ではありませんでした。ただ、子供心になんとなく、神様の優しさを感じたのかもしれません。
その後、年を経て私が40歳になる頃、仕事の都合で北海道に異動しました。そんなある日、「もう一段上の自分の中の大人探し」をやってみたくなり、最初に手を伸ばしたのが「イタリア産ワイン」と「パン」でした。そういうなかで、幼少の頃の幼稚園の先生の顔を思い出したのかもしれません。
そして、今から5年ほど前に平塚にもどってきて、その後どうしても乗り越えられない壁にぶつかってしまいました。そんな折今度は、同僚の声に励まされることになりますが、この励ましをしてくださった方が洗礼は受けてはいないのですが、聖書の勉強をされたことのある方でした。そのときの言葉がきっかけとなり、2014年4月19日に、平塚教会で洗礼を受けることになりました。(談)


シスター Y・

私がカトリックと出合ったのは、メルセス会がやっている山口県のH・・学院高校に入学したときでした。私の姉は、H・・学院高校在学中にカトリックの洗礼を受け、メルセス会の修道院の志願者となっていました。その姉から、高校に入ったら学校の公教要理に参加しなさいと勧められていたので、私はそれに従って公教要理を受け、洗礼を受けたいと思うようになりました。公教要理は、すべて高校の中でやっていたので、初めてカトリックの教会に行ったのは、いよいよ洗礼を受けるという段階になってからでした。
私の両親はカトリックではありませんでしたので、姉が洗礼を受け、さらに修道会の志願者として東京に行くと知らされた時、強く反対しました。その時は、まず母が折れて、母から父を説得する形になりました。私はそれを見て、「ああ、親を悲しませてはいけないな」と、思っていました。

その私も高校時代に洗礼を受け、高校を卒業して東京の保育学校に行きたいと言い出したので、父はまた反対しました。この時もまた、母が父を説得してくれましたが、父の出した条件は、「姉のように、修道院に入りたいなどと言い出さない」というものでした。東京では、クララ会のシスターがやっている寮に入りました。私は、学校の帰りに映画を見たりして青春を謳歌していましたが、やがて神様が呼んでくださったのか、修道女を目指すようになりました。
そこで、寮母さんをなさっていたシスターに、クララ会に入りたいと相談しました。ところがシスターのお返事は、「他にも修道会はたくさんありますよ」でした。それから、いくつかの修道会を訪ねた後、メルセス会のシスターに相談しに行きました。すると、「すぐ入るよりも、一旦家に帰ってからのほうがいいと思いますよ」と言われたので H・・市に帰って、H・・女学院の幼稚園に就職しました。

幼稚園に勤め始めて1年たった時に、メルセス会の管区長に入会の相談をすると、「お母さんを呼んでください」と言われました。母は、そのときすでにカトリック信者になっていました。管区長に会った後、母に「何て言われたの?」と聞いても、母は答えてくれませんでした。そこで、私から管区長に聞いてみると、管区長は「お母様は、神様が私の娘をすでに1人使ってくださっているにも関わらず、2番目も受け入れて下さることに感謝します、とお答えになったのよ」と、涙を浮かべながら話してくれました。この時も、母が父を説得してくれて、私は修道女になることができました。(談)

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