特集 平塚教会の年間報告
去る3月21日、カトリック平塚教会の年に一度の信徒集会が開かれました。集会では、2020年度の活動報告と2021年度の計画が発表されました。また、新しい教会委員会などのメンバーも発表されました。この特集では、信徒集会の内容を、かいつまんでお知らせします。まずは、志澤周一郎委員長のご挨拶から。
●今より少しおせっかいな人に
主のご復活おめでとうございます。
新型コロナウイルス感染症拡大という未曽有の事態となり、早1年以上が経過しました。教会もこの間、見えない恐怖と時間を共有して参りましたが、今までひとりの感染者もなく無事でありましたことは、ひとえに神様のお恵みであ
るとともに、ごミサにあずかる皆さまが、マスク着用、検温、消毒などの参加ルールを徹底していただいた賜物と感じております。この場をかりてお礼申し上げます。今まで失われた多くの尊いいのち、またご家族や親しい友人を亡くされた方々の深い悲しみ、現場で休みなく対応してくださっている医療従事者の方々、失職され絶望にたたされている方々を思い、今こうして生かされていることに感謝し、教会として何ができるのか、今後も皆さまと一緒に考えていきたいと思います。引き続きよろしくお願いいたします。
コンプライアンスという言葉があります。直訳すると「法令遵守」という意味ですが、現代の企業経営においては、企業(法人)が社会的存在である以上、社会のルールである法律や社会規範に沿った企業活動を行うことはごく当然のことであります。一旦違法行為などが発覚すれば、その企業(法人)は行政的な処分を受けるだけでなく、当たり前の責任を果たしていない企業(法人)として、取引先や消費者からの信用を失い、多額の損害賠償を求められるなど、事業の継続が不可能になってしまうということは、よく聞かれると思います。宗教法人として、教会も社会の一員である以上はこうした観念を持ち、社会規範にならうなど、社会との接点を持つことは、宣教面においても大変重要なことです。実際に全国の多くの教会も、コロナ禍においてミサを中止にするなど、クラスターを発生させないという規範に従ってきました。病床が逼迫し、いのちの選択が行われているという報道を目の当たりにし、教会が反社会的な存在として、人々から懐疑され、疎まれる事態は、人々を信仰に迎え入れることを目的としている教会として何としても回避しなければ。そのような信念のもと、何度もテハン神父様のもとに行き、ごミサを中止にしてほしいとどれだけお願いしたことかわかりません。
しかし、そんなやりとりの中で神父様がおっしゃられたことは、絶望しエネルギーを枯らすだけがすべてではなく、その中でもどう前を向けるかが大事であるということでした。その説かれたことが正しかったことは、今日もごミサの後で、陽だまりの中、庭のベンチの周りで談笑されている皆さまの笑顔が証明しているかのようです。ごミサを継続してきたことは確かにリスクを伴いましたが、人数調整や検温当番などの対策も功を奏し、結果として神父様OK、信徒OKという最も理想的な状況となったのが今の平塚教会なのです。時には意見をぶつけ感情的にもなり、大変無礼な態度をとったりいたしましたことも、きっと神父様なら笑ってお許しいただけるのではないかと、勝手ながら信じております。
しかしながら、ようやくワクチン接種が始まったとはいえ、この厄介なウイルス感染症の収束はまだ先の話になるとの専門家の見解です。もうしばらくはこの局面を正しくおそれ、そして柔軟に対応しながら乗り切っていきましょう。
今期の教会委員会では‘寄り添う’ということをテーマに掲げました。例えば、コロナ禍で感染を危惧し教会に来られなくなってしまった方、職を失い絶望されている方などに対し、自ら寄り添い話を聞き、少しおせっかいな人になりませんかという意味が込められております。受洗した当時、洗礼を授けてくださった神父様に、愛するとはどういうことですかとお聞きしたところ、それは‘人の話をきくこと’とお答えになりました。3密が感染要因とされ、私たちは人との距離を開けたり、会話を控えたりすることを余儀なくされ、知らないうちに人の話をきくということから遠ざかっている一面があるのは確かなことです。コロナ禍となり、何故か満たされない心情というのは、そういう人と人との交わりが遮断された結果なのかもしれません。群れからはぐれてしまった1頭の子羊を見つけ出すこと、それは共同宣教司牧の観点からすれば、私たち信徒にもその役割が期待されています。信徒の皆さんが、今のご自身よりも少しおせっかいな人になれるように、神様のご加護を願いつつ、最後にこの言葉でご挨拶を終わりにしたいと思います。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイ28:20)