トリック平塚教会報 第120号 2020年4月5日発行
平塚教会主任司祭 トーマス・テハン
毎年、日中の時間が伸びて暖かくなり、新たな自然の命が芽吹く春は、特に神の祝福で満たされる季節です。自然の初々しさが人々に喜びを与えます。多くの若者の新たな門出を祝い、新生活の希望があちらこちらで見られます。公園や遊園地は、元気な子どもたちや大人であふれます。様々な色の植物が人々の目を楽しませ、皆が神の恵みの豊かさを讃えます。私たちはこの機会に、生命の神秘を経験し、それについて考えることができます。
私たちはキリスト者として、信仰の神秘を祝うために集まります。そのことは、ミサの奉献後の次の言葉に要約されています。「主の死を思い、復活を讃えよう。主がこられるまで」。キリストの弟子として私たちは、その神秘にあずかるよう求められています。そのためには、イエスに従い、「どのように生きるか」ということについて、イエスと同じ思いをもつように努めることが必要です。
しかし、それを困難にしてしまう最大の原因は、私たちが自己中心的であるということです。言いかえれば、私たちが、現在の状況をコントロールするために、強い自尊心をもって現実に対応しているために、イエスに従い、思いを共にすることが難しくなってしまうということです。私たちは、すぐに過ぎ去ってゆくイメージや思い、想像、あるいは願望などを、私たちの目の前にある現実と混同してしまいます。私たちの頭の中は常にいっぱいになり、ゆったりとした気持ちで、目の前のことに穏やかに応えるのが非常に難しくなります。自然に目を向ければ、自然との対話がどれだけ私たちを元気づけるか気づくことができるのですが、私たちは、忙しさの中で、自然の美しさを楽しんでいたことを忘れてしまいます。
そのためキリストは、「自分に死ぬ」というプロセスを私たちが受け入れるよう促しています。福音書の中には、イエスが洗礼者ヨハネの弟子に、泊まっている場所に来るように促す場面があります。弟子たちはイエスのところにやってきて、時を過ごしました。彼らは、イエスのことを多くは知りませんでしたが、自分で経験し対話することによって、イエスと出会いました。それはとてもよい経験であったため、喜びを分かち合うために、他の仲間を探しに行ったほどです。
私の経験では、自分の思いやイメージ、考えなどから解放され、目を閉じて静かに座るには、早朝、日の出前がいい時間です。キリストと聖霊とともに、その愛が自分自身の中に流れるように努めるのです。イエスが受洗した時に神が行ったように、「これは私の愛する子、私の心に適うもの」という言葉が天から届いたように、神がその愛を注がれるのを受け入れるのです。
神はその時に、変幻自在の力を私たちの上にお与えになります。聖パウロは、それを次のように表現しています。「生きているのはもはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」。それは、私たちの生涯にわたって続くプロセスです。自分自身を無にして、暗闇の中に入ってはじめて、聖霊であるキリストの光を受け入れる準備が整います。つまり、キリストとともに死に、新たな命とともに生きるのです。私たちはこれを、イースターの儀式として行っています。復活のろうそくに火を灯し、あとに続く個々のろうそくに光をつなぎながら、「キリストの光、神に感謝」と唱えます。キリストはここに私たちとともにあり、その栄光のうちにいつまでもともにいてくださいます。
キリストは道であり、真理であり、命です。そして、私たちが命の限り心を開くのを待っておられます。受け入れること、苦しみをとおして働くことによって自らを無にすることが、復活と新たな命への道なのです。私たちが皆、復活したキリストの喜びを分かち合うことができますように。(訳:M.U)