世の光

特集 もっと知りたい! 聖コロンバン会

 カトリック平塚教会は、1953年の設立以来ずっと、聖コロンバン会の神父さま方の指導を受けています。でも私たち信徒は、聖コロンバン会についてどれだけの知識を持っているでしょうか。そこで、聖コロンバン会の歴史と聖コロンバンについて特集します。

●聖コロンバン会の歴史


 2018年11月23日、平塚教会で聖コロンバン会の設立100周年のミサが捧げられたのを覚えている方は多いと思います。1918年11月23日は、聖コロンバン会がバチカンから正式に承認された日であり、11月23日は聖コロンバンの祝日でもありました。
 話は1912年まで遡ります。エドワ
ード・ガルヴィンというアイルランドの教区司祭が、アメリカのニューヨー
クで司牧をしていました。ガルヴィン神父は中国で働いているある宣教師の話を聞きました。彼はこの宣教師との出会いに神の呼びかけを感じて、宣教師となる決意を固め、中国に渡りました。
中国では宣教にとどまらず、一人では抱えきれないほどのたくさんの仕事が彼を待ち受けていました。「収穫は多いが、働き手は少ない」というキリストの言葉そのままの状況でした。彼は組織を作る必要を痛感してアイルランドに戻り、神学校の協力を求めました。
 神学校で教鞭をとっていた若い司祭ジョン・ブロウィックが、中国での宣教に共鳴しました。ブロウィック神父は、教授の地位を捨ててガルヴィン神父と行動をともにすることになり、ふたりで新しい宣教会の創設を目指しました。
 ブロウィック神父はアイルランドで、多くの信徒たちの協力のもとに宣教会の組織作りを始め、ガルヴィン神父は中国で、新しい宣教師たちが実際に働く場の準備に取りかかりました。
1918年、新しい宣教会はバチカンから正式な承認を得ました。バチカンは新しい宣教会に、聖コロンバンを保護聖人とすることを勧告し、聖コロンバン会が誕生しました。間もなく聖コロンバン会は、アメリカやオーストラリアでも根を下ろし、将来の宣教師の育成に力を入れました。
 1920年に、最初の17人の司祭たちが中国に向かいました。そして、1940年代にかけて中国の人口密集地域で働きました。宣教師たちは、洪水や疫病、飢饉や戦争、そして革命に耐え、闘いましたが、毛沢東の共産党政権によって国外に追放されてしまいました。一方で聖コロンバン会は、そのころまでにフィリピン、ミャンマー、韓国などで宣教活動を行っていました。
 1934年、聖コロンバン会の司祭であるオブライエン神父とドイル神父が、韓国にいる日本人のために日本語を学ぶ目的で来日しました。その後、太平洋戦争が勃発して一時帰国を余儀なくされましたが、戦後、東京教区の土井大司教から、日本で宣教してほしいとの要請を正式に受けました。
 1948年には、聖コロンバン会の日本管区が設立され、神奈川県の湘南地区、千葉県、和歌山県、熊本県の司牧を担当することになりました。これまで(2022年現在)に169人の司祭と19人の信徒宣教者が、日本に派遣されています。平塚教会も、大磯教会も、茅ヶ崎教会も、教会設立時の主任司祭は聖コロンバン会の神父さまです。
 現在、日本におられる聖コロンバン会の司祭は11人で、神奈川県内ではテハン神父さまをはじめ4人の司祭が司牧しておられます。

●聖コロンバンはどんな聖人?


 コロンバンはアイルランドのレンスター州の貴族の家で、543年に生まれたと言われています。彼は容姿に恵まれていたので、町の女性たちから誘惑を受け、そのことでとても苦しみました。そこで、隠遁者となった女性のところに助言を求めに行くと、彼女はコロンバンに、神のためにすべてを捨てて生きる生活をすすめました。コロンバンの母親は反対しましたが、彼は修道院に入る決心をしました。
 コロンバンはまず、アイルランド北部にあるクルアンイニスの共同体に行き、聖書の勉強をしました。そして20歳のとき、アイルランド東北部にあるバンゴール修道院に入りました。修道院では禁欲的な生活をしながら祈りと勉学に励み、司祭に叙階されました。
 それからコロンバンは、12人の同志とともにヨーロッパへ宣教旅行に出かけました。当時のヨーロッパは、民族の大移動により修道院や教会が破壊されて、人々の生活も荒廃していました。彼らはアウストラシア(現在のフランス)に到着し、未開拓の地で生活を始めました。修道士たちは土地を開拓し、祈りと厳しい禁欲の生活を送り、人々に良い模範を与えました。やがて修道士たちのところには、巡礼者たちが訪れるようになり、多くの若者が仲間に加わることを望みました。
 コロンバンは修道士たちの数が増えたので、第二の修道院をリュクスーユに建てました。彼はそこで20年間過ごし、『修道規則』という本を著しました。この本は彼に従う人々のために書かれたものであり、現存する最も古いアイルランドの修道規則です。
 そのころ、国王や権力者たちは風紀の乱れた生活を送り、ヨーロッパは暗黒の時代を迎えていました。コロンバンは躊躇することなく、彼らの行いが正しくないことを指摘し、宮廷と対立するようになりました。そのためコロンバンはガリア(現在のフランス)から追放され、ドイツ、スイス、イタリアなどで宣教しました。
 イタリアでは、異端とされたアレイオス派との論争を展開し、分裂していた教会を一致させるために尽くしました。612年ごろには、イタリアのエミリア・ロマーニャ州にあるボッビオに修道院を建て、615年11月23日にそこで帰天されました。
 コロンバンは、生涯を通して地上の富から離れ、禁欲的な生活を送りました。それは、彼が神の愛に自由に心を開き、神が与えてくださる賜物に自分のすべてで応えるためでした。文化人だった彼は、修道司祭、宣教者、著述家として様々な国で活躍し、ヨーロッパの再キリスト教化と文化的統一のために尽くしました。
 この聖コロンバンを保護聖人とし、その精神的遺産を継承して、外国での宣教を続けているのが聖コロンバン会です。

●平塚教会の歴代主任司祭(全員が聖コロンバン会)


1953年9月 カトリック平塚教会献堂
バーク神父さま着任
1955年9月 ディバイン神父さま着任
1958年2月 オコナー神父さま着任
1958年8月 シーヒー神父さま着任
1960年1月 オコナー神父さま着任
1960年11月 オマホニー神父さま着任
1964年8月 コイル神父さま着任
1965年9月 オマホニー神父さま着任
1972年6月 ドイル神父さま着任
1980年4月 クレイトン神父さま着任
1984年4月 ヘイデン神父さま着任
1995年1月 ブランチフィールド神父さま
着任
2008年4月 テハン神父さま着任
現在に至る

※参考資料:東京教区ニュース137号「教会・修道院巡り」50、福岡教区報766号「知りたい!福岡教区内の修道会、宣教会」5、聖パウロ女子修道会Laudate「聖人カレンダー」聖コロンバン修道院長

 教会報では、これまで南米コミュニティとフィリピン・コミュニティができるまでをお届けしてきました。今回は、カトリック平塚教会ができるまでです。当時のことに詳しい長谷川則子さんにお話を伺いました。

●それは応接間から始まった 

 1949年(昭和24年)、平塚市龍城ヶ丘にお住まいの牧野京子さん宅に、茅ヶ崎教会の主任司祭だったゴールマン神父様と、東京四谷のイグナチオ教会のホイベルス神父様のお2人が来られて、集会が開かれました。牧野さんがホイベルス神父様に、自宅の応接間でミサを捧げてくださいとお願いしたのがきっかけでした。この時集まった信者は5、6名でしたが、これが平塚に教会の共同体が誕生した瞬間だと思います。
 それまで平塚在住のカトリック信者は、茅ヶ崎教会のミサに通っていました。茅ヶ崎教会といっても、現在の場所よりも駅から遠いところにあり、茅ヶ崎駅から歩くと20分ぐらいかかりました。私も当時、晴れた日には、海岸通りを自転車で走り、茅ヶ崎教会まで通っていました。当時、聖体拝領するには、前の晩から飲食を禁じられていましたから、長距離を自転車で走るとへとへとになりました。
 牧野京子さんのお宅では、夕陽ヶ丘の今の「やまいち旅館」の裏のあたりに貸家を持っていました。そこを平塚の仮教会として提供してくださったので、毎週日曜日にそこでミサが捧げられるようになりました。茅ヶ崎教会に通っていた信者約30名は、そこに集まるようになりました。茅ヶ崎、藤沢、大磯などの神父様が、交代で来てくださいました。日曜学校も、初聖体の準備も始まりました。それが1951年ごろだったと記憶しています。


 神父様方はお食事をせずに平塚にいらっしゃるので、ごミサが終わったら朝食を出さなければなりません。私はまだ二十歳になるかならないかで、外国人というのはいつも肉がなければいけないと思っていたので、朝から肉料理を用意しました。その時のことを、「山田さん(長谷川さんの旧姓)はあの時、朝から肉を出したよな。ベーコンエッグだけでよかったんだよ」と、その後おっしゃる神父様がおられました。

人里離れた芋畑


 そのころ、教会を建てる話もポツポツ出始めました。平塚の七夕通りに「田中紙店」というお店がありますが、そこのご家族が信者さんで、息子さんの田中正志さんが今の平塚教会の土地を買う話を持ってこられました。3軒の小作人が耕している芋畑でした。その話を、当時の横浜教区の脇田司教様のところに持っていくと、買って教会を建てましょうということになりました。ただ、当時としては街の中心地からほど遠く、家も何もないところに教会を建ててどうするのだと、反対する神父様方も多かったようです。
 土地は教区が買うとしても、信者はまだ30人ぐらいしかいませんでしたから、聖堂を建てるお金がありませんでした。でもありがたいことに、コロンバン会や、貧しいアイルランドの信者さんからも寄付を募ってくださって、聖堂と司祭館が建つことになりました。
 教会が建った土地は、太平洋戦争中は私が住んでいた区域の避難場所とされていました。アメリカ軍のB29の爆撃があると、私は妹を連れてここに避難してきました。避難した先にも、焼夷弾が直角に落ちてきて、ブスッブスッと砂地に刺さります。そこで持っていたヘラで砂をかけながら自分の逃げ道を作って、妹を背負って逃げ回りました。その時、命を救ってくれた砂地に、霊魂を救ってくれる教会が建ったということは、私にとっては奇遇でした。

世界の教会の献金の賜物
 1953年9月27日。待ちに待ったカトリック平塚教会が畑の中に建てられました。この日のために多くの人の祈りと奉仕が捧げられ、献堂式を迎えたわけですから、平塚地区の信者の喜びようは、何物にもたとえようもありませんでした。教会建設に尽力してくださった脇田司教様はすでに退任され、新任の荒井司教様の司式で、献堂式が行われました。司教様は集まった人たちに向かって、次のように述べられました。
「この聖堂は横浜教区、または聖コロンバン会が建てたものではなく、世界のカトリック教会の献金の賜物である。今日からは平塚教会の信徒が維持していかなければならない」
 教会が建ったのは畑の真ん中でしたが、前を通る道路も大きな石がゴロゴロとして、自転車も通れないくらいのじゃり道でした。しばらく経って道路が舗装されると、バスが通るようになりました。ところがバス停は「税務署前」の次が「杏雲堂」で、教会の前には止まりませんでした。すぐに私の主人の長谷川陽が神奈川中央交通に交渉に行って、「教会前」というバス停を作ってもらうことができました。
 平塚教会ができたのは、聖霊の働きかけです。コロンバン会の神父様方が、何人も赴任してこられましたが、その都度新しいことをご指導くださって、私たちは生きた教会として勉強させていただきました。これからも聖霊の豊かな働きかけによって、100年目を迎えてほしいと思っています。

 キリスト教関係の本は次々と刊行されますが、すべてに目を通すことはとてもできません。そこで、今年発売された本の中から、教会報編集部の3人が気になった3冊をご紹介します。クリスマスから年末年始のお休みに、ぜひ手に取ってみてください。

●『イエスは四度笑った』
米田彰男・著、筑摩書房、2024年5月刊、
1,700円+税

つい先日、教会の先輩から、本書が朝日新聞で紹介されていることを伺いました。一般新聞社でキリスト教に関する書籍が紹介されたことや、なんとも味わい深いタイトルに興味を持ち、早速購入いたしました。
本書は、1970年代に発見された『ユダの福音書』とイスカリオテのユダの解説から始まります。長き歴史の中で裏切り者とレッテルを貼られ続けてきたユダでありますが、本書では悪人のイメージがあるユダが実際はどのような立場の人物だったかということを改めて考えさせます。
ユダは本当にイエスを裏切ったのか。ユダの裏切りがなければ、イエスの逮捕もなく、その後の審判も、十字架上のイエスの死もなく、復活もない。その結果、今日のキリスト教もなかったのではないか。著者は、その様に論じながら、ギリシャ語の聖書の原文と『ユダの福音書』などをもとにしてユダの裏切りと、その別の動機について解説します。そして、この『ユダの福音書』の中で、本書のタイトルにもなっている、『イエスが四度笑っている』ことについて、著者は語ります。
正典福音書(マルコ・マタイ・ルカ・ヨハネ)のどの場面にもイエスが笑われている姿は描かれていない。『ユダの福音書』の中で描かれたイエスの四度の笑いについて、著者は現代聖書学に照らし合わせながら、著者の言葉にありますように挑戦的に解説していきます。
さらに『ユダの福音書』の解説をきっかけに、著者は福音書の中に描かれたイエスの怒り、苦しみ、悲しみ、喜びについて論じます。福音書の中で、実はイエスがユーモアを用いて語っていることが、著者の解説の中で分かった瞬間、目が覚めるような感覚を受けるとともに、そこに気づきを得るように導いた著者の手法に感嘆いたしました。
著者の丁寧な解説によって、読み進んでいくうちに、それまで難解と感じたり、近寄り難い印象を持っていた現代聖書学などについて身近にうかがうことが出来ました。何よりも著者による福音書の解説をもとに同書を読んでみると、その中には、確かにイエスの喜怒哀楽が描かれていることを味わいました。
最後まで息をつかずに夢中になって読ませて頂きました。どうぞ皆様も是非お読みになってください。(眞 章洋)

●『病と老いと死、とその後の「いのち」』
森一弘・著、女子パウロ会、2024年3月刊、
1,400円+税

森一弘司教様が、真生会館における講座シリーズでお話になられた原稿をもとに編集された、この一冊をともに味わえたらと思います。
まえがきにもありましたが、森司教様は、多くのご著書の中で「闇」についてしばしば扱われました。「いのち」が脅かされている近年多くの苦しみ悩む人々とともに歩まれたその経験から「いのち」を危うくしている根源が何かを見つめ、考察され続けられました。
「闇」が人間にとっては避けようのないもの、むしろ闇は、人生の一部、旅の道連れ、であるといいます。闇はさまざまな形で私たちに訪れます。しかし闇に包まれながら、そこで何らかの光を見出している人々、そのように生きる人々もいること。絶望の淵にあっても決して見失うことのない「光」を見出していくことができる人もいるのは何故か。それは、Beingの土台がしっかりあること、無条件で、温かく包まれることを経験していることであると言います。
しかし、一般社会の論理が家族ばかりでなくさまざまな関わりの中でも浸透し、格差、差別、分断を引き起こしていることが現実です。しかし、その流れを食い止めるものは「良心を照らす光として、キリストの生き様」を見つめることなのだと言います。そのために「私たちの内に潜んでいる願望の識別を行うこと」は欠かせず、私たちが自覚しないままに取り込んでいる願望、欲望の識別を行うことで真に大切な価値観を育てていくことが大事なのだと指摘されます。
「いのち」がいのちとして、そのオンリーワンを生きようとする時「死」をも自覚します。その唯一無二の「わたしそのもの」はそのまま身体を媒介にして、世界とつながります。そしてその交わりの根源である神とのつながりこそ、聖霊とのつながりにほかならないことを示されます。
「聖霊」については最終章に(聖書の中では「神の霊」)多くを割かれています。「〜人はこうして生きる者となった」私たちは「いのちの息」を吹き込まれた存在であること。闇の中にあっても、微かな光を求め願う時に人を立ち上がらせ、回復させる聖霊。私たちを聖霊の住まいとされた神様は、闇の中で喘ぐ私たちを「いのち」そのものである光で導き再生させて下さるという信頼に満ちたページで締め括っておられます。
「最後は、生かされてきたことを深め、感謝していくことに人間としての『このわたし』の究極の完成がある」とエリク・エリクソン(深層心理学者)の言葉を紹介されておられるのも心に温かく残ります。(山崎孝子)

●『生涯学習のための「祈り」』
百瀬文晃・著、女子パウロ会、2024年10月刊、
1,350円+税

教会で祈りの大切さについて話を聴くと、「そうだ、もっと祈ろう」と決心するのに、日常生活に戻ると、つい祈りを忘れてしまうということを繰り返している。そもそも、祈り方についてじっくり学んだり考えたりせずに、過ごしてきてしまった。私を含めて、そんな信徒の方にぴったりの本が出ました。
この本は、山口県のカトリック長府教会の主任司祭である、イエズス会師の百瀬文晃神父さまが書かれた、「祈り」についての解説書です。祈りの基本から、カトリックの伝統的な祈りまで、具体的に分かりやすく解説されています。
「祈り方の基本」の章では、まず、祈る習慣を身につけることの大切さが強調されます。たとえ短い時間であっても、毎日、神に向かって心を上げることが重要だというのです。そして、祈るための時間と場所を決めること、祈るための姿勢と呼吸を整えることも大切だと書かれています。
次に、聖イグナチオが書いた『霊操』という書物を基に、いくつかの祈りの方法が解説されています。祈りは大ざっぱに言って、声に出して祈る口祷(こうとう)と、口に出さず心の中で祈る念祷(ねんとう)に分けられます。
念祷には、大きく分けて「黙想」と「観想」があります。黙想は、記憶と知性を使って、聖書の言葉や救いの神秘について思い巡らすという祈り方。観想は、あまり考えることをせず、神やキリストの前に身を置き、救いの神秘を味わうという祈り方です。
さらに、口祷の様々な祈り方が紹介されます。旧約聖書の詩篇を唱える祈り。新訳のルカ福音書にある「マリアの讃歌」と「ザカリアの讃歌」。福音の真髄を要約しているといわれる「主の祈り」に関する詳しい解説。教会で皆とともに祈る「十字架の道行」や「ロザリオ」や「ゆるしの秘蹟」の祈り方などです。
この本は、山口・島根地区の信徒養成講座で百瀬神父さまが行った、「キリスト者の祈りと生活」という全12回の講話が元になっているので、信者になりたての人にもわかるように優しい言葉で書かれています。様々な祈り方が出てきますが、その中からひとつでも、自分に合った祈り方を見つけて、日々の習慣にしてみてはいかがでしょうか。と、人ごとではなく自らにも言い聞かせている私です。(細井 聖)



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