無になることと満たされること

カトリック平塚教会報 第123号 2022年4月17日発行

平塚教会主任司祭 トーマス・テハン

ミサの中では、司祭が奉納のあと「信仰の神秘」と唱えると、信徒が、「主の死をおもい、復活をたたえよう、主が来られるまで」と続けます。別の言い方をすると、キリストは復活の栄光のうちに入るため、自分自身を「無」にしています。それはキリストが選んだ道であり、また、神の永遠の神秘にあずかるために私たちが選ぶべき道なのです。

科学者は、気候変動について警告を発し、人類が地球上で生存を続けるには、行動変容が急務であるとしています。私たちは基本に立ち返り、炭素レベルの削減や、地球がすべての生物のものであるという原則をまっとうするために、互いに協力する必要があります。教皇フランシスコは、それをどのように行なうかについて、良い視点を与えてくださいました。  マスメディアは、前述のような危機に関するデータを絶えず伝えています。これらの過剰なデータに対する私自身の対処法は、頭と心を空っぽにして、毎朝30分間、考えたり、思い出したり、望んだりせずに、静かにじっとそこに存在することです。その間に、神様が行いたいことをなさってくださると信じています。 ここにクリスマスの神秘のひとつの側面があります。聖霊によって子を授かることを大天使ガブリエルに知らされたときに、マリアは祈りを捧げていたと思います。マリアは、それがどんな状況をもたらすかわからなかったのですが、神様が愛してくださっていることは分かっていました。それで、神様への信頼によって、「お言葉どおり、この身に成りますように」と、応えました。マリアは喜びにあふれ、そのよい知らせを従姉のエリザベスと分ちあうため、しばらく従姉のもとに身をよせました。日常が非日常となったのです。 ルカによる福音で述べられている最初のクリスマスは、神様の物事のなされ方を私たちに示しています。生まれたばかりの子どもの傷つきやすさは、どういうわけか最も心を閉ざした人にさえ拒絶できません。生まれたばかりの子はみな、神様の似姿によって作られた神の種です。私たち全員が、キリストにおいて神へと成長する力を持っているのです。 イエスは日常の生活の出来事を通して、その方法を教えてくださいます。愛の中で行われる日常の出来事は、永遠の広がりを与えてくれます。イエスは、ご自分が行っていることを充分に心得ており、私たちが同じ事を行うように導いています。イエスは、言葉とともに感覚を用いました。 イエスは父の私たちへの愛について、次のように証言しています。「わたしを見た者は、父を見たのだ。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられるからである」。私たちは父に愛されていますが、その愛には、ほかの人々によって表現されるという経験が必要です。生まれたばかりの子どもは、愛情をもって抱かれ、触れられ、キスされることで、父の愛を経験します。子は、喜びの笑顔や笑いによって、その愛を受け入れます。 私たち人間のひとりとなったイエスは、神性から離れ、人の条件である弱さと苦しみを経験します。イエスはマリアとヨセフの養育のもとで、知識や感性を育まれました。イエスは私たちと同じように、父である神の意志が何かを探し出さなければなりませんでした。幸いなことに、福音書記者は、そのような父の意志を確認する重要な場面のいくつかを、私たちのために残しています。思い返せば、イエスの生涯でそのような場面は三つありました。 ひとつ目は、砂漠においてヨハネから洗礼を受ける場面です。ヨハネの洗礼は、罪を悔い改めるためのものでしたが、イエスには罪がないため、その洗礼は、謙虚さと人間との連帯によって自由に行なわれました。イエスが祈るとすぐに鳩が現れ、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から届きました。これは、イエスの選択が、父の意志に沿ったものであるという、積極的な肯定でした。 ふたつ目の場面は、カナの婚礼です。イエスの母マリアは洞察力のある方で、皆のワインが足りなくなってきたことに気づき、イエスのほうを向いて、「ぶどう酒がなくなりました」と伝えました。イエスは「婦人よ、わたしの時はまだ来ていません」とぶっきらぼうに答えました。しかし、マリアは落胆することなく、イエスを信頼して、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と召し使いたちに伝えました。マリアが示した同情と信頼がイエスに影響し、イエスは気持ちを変えました。こうしてイエスは、公の場で最初のしるしを行いました。 三つ目は、ゲッセマネの園の場面です。イエスは三人の使徒に彼とともに祈るように言いました。イエスはエルサレムで自分の最期のときが近づき、どうするべきか苦悩していました。ルカは、イエスの苦痛を、「汗が血の滴るように地面に落ちた」という言い方で表しています。イエスは祈ります。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」 上の三つの場面を振り返ってみると、私たちと同様にイエスは、良いとも悪いとも言えない「自我(ego)」というものを持っていることがわかります。しかし、「エゴイズム(egoism)」ということになると、それは、真実の否定であり、利己主義的ということになります。私たちの「自我」は、思考、感情、想像、経験の組合せであり、適切に用いられるのであれば、すべてそれ自体は悪いものではありません。しかし私たちは、それらの思考、感情、想像、経験の影響を受け、その奴隷となることがあります。そのため、時として、今ここで起きている事柄に対する私たちの感覚が、麻痺してしまうことがあります。 祈りは私たちを無にし、その結果私たちは神の神秘という現実に対して完全に心を開いた状態になれるのです。「自我」は分断し、コントロールしがちです。しかし、無になることは、可能性に向けて自分を開き、神の導きに対して心を準備することにつながります。「自我」は、コントロール、予見性、確実性を好み、激しい変化や弱さや苦痛を好みません。人生の道、神の道、幸福の道は、イエスが示す霊的な道であり、無を通して得られる、人生の豊かさへの道です。 イエスは私たちを置き去りにせず、私たちがイエスと良い関係を築けるように、ご自分の聖霊を与えてくださいます。そして、イエスを知ることによって、私たちは父を知ることになります。なぜなら、イエスは父とともにおられる方だからです。このプロセスを通して、私たちは自分の「自我」を乗り越え、本当の自分になれるのです。私たちの本当の自分は、神の姿に似たものです。 御復活の神秘の祝いが、神の無条件の愛を深く経験する機会となりますように。(訳:M.U)


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