今、僕は横浜市に住んでいますが、3月11日地震が起きた時は、前日が中学校の卒業式で、クラスメイトとオリンピックでお別れ会をしていました。地震があった瞬間は、怖いとは感じず、ただ「大きい地震が来た」としか感じませんでした。でも、みんなで帰宅した方が良いだろうという事になり電車に乗りました。平塚を出て茅ヶ崎駅まではスムーズに行きましたが、止まってしまい、電車内にアナウンスで「津波警報が発令されている」と言っていました。
地震後、最初に長崎の叔母から電話が来ました。母も僕に電話をしていたらしいのですが、なかなかつながらず、まず、長崎に電話して、祖母や叔母に電話してくれるよう頼んだそうです。茅ヶ崎駅で電車の再開を待っていましたが、「津波にのまれると危険なので」と言われて、駅のホームで50分位いました。そのうち掛って来た叔母からの電話で母からの伝言を聞き、平塚の父の家に行きました。途中のコンビニで、「買えなくなると困る」と伝言で指示のあった飲み物と食べ物を買いました。茅ヶ崎駅から平塚の家まで徒歩で1時間半ほどかかりました。茅ヶ崎駅のテレビでは東北が波にのまれていく様子が放送されていました。それを見て「すげぇ」と思いました。平塚に向かって歩き出した時からiPodのラジオでニュースを聞いていました。馬入橋を渡るとき津波は来ていなかったので怖いとは感じませんでした。11日の夜は、停電もなく父の家で寝ました。でも、横浜の方では10時くらいまで停電だったそうです。
翌日から14日までは、地震前と変わらず過ごしていました。僕は普通に眠ることができたけれど、被災した人たちは寒い夜を過ごしたそうです。地震の後、トイレットペーパーが無くなってしまったので、ららぽーとまで買いに行きましたが、一つも残っておらず自転車で3件位お店を回って、やっと隣の駅のお店で一つだけ、いつも買うトイレットペーパーの倍ぐらいの値段の物が1つだけ残っていました。その後、お米と水も買いに行きました。いつも行く業務スーパーには無く、やはり3件目のお店でお米を見つけ、水にありついたのは5件目でした。いつも20分位で終わる買い物がこの時は2,3時間かかりました。テレビで買い占めをしないようにと言っていましたが、「もう遅い」と思いました。僕が買い物に行った14日もパンや水の様なすぐに食べられるもの、カロリーメイトのように日持ちする物はほとんど残っておらずお菓子だけが残っていました。子どもが欲しがっていましたが親が「今買わなくていいもじゃない」となだめていました。
発電所が使えなくなるので、電力が足りなくだろうから「節電しなきゃな」と思いました。今回地震で原発が壊れてしまったけれど、管理さえしっかりしていれば本当は安全なのにと思いました。ニュースを見ていたら、500年前にも起きた地震で今回と同様に津波が起きていた事を東京電力が聞いても対策をとらず、作った時は大丈夫だと思ったかもしれないけれど、その後、改善すべき点が見つかり、アドバイスをされても東京電力は聞かなかったそうです。今も、福島原発の周辺から逃げている人が沢山いますが、実は母の会社から避難命令が出て僕も3月15日から2週間くらい祖母の家に避難していました。
皆さんはいぶせますじの『黒い雨』を知っていますか。原爆投下の後、キノコ雲の放射性物質を含んだ雨を浴びたせいで、髪の毛が抜け落ち白血病になった人の話です。雨が降るまでどこが汚染されているか分からないから心配だったので、会社が避難命令を出してくれてほっとしたと母が言っていました。千葉に住む叔父にも一緒に避難するように電話したところ「行かない」と言われて、心配していました。他にも友人達に電話したらしいのですが、みんな「そんなこと無い」、「どうしようもない」と言ってあまり気にしていなかったようです。
今年の夏は、節電のため母がベランダにゴーヤを植えたり、去年は2台使ったクーラ―を今年は一台しか使いませんでした。6月にやったミニバザーではみんなすごく買ってくれてうれしかったです。みんな東北の事を心配して、役に立ちたいと思っているんだなと思いました。僕の学校でも文化祭の売り上げの一部を義捐金にしました。皆さんは線量計を知っていますか?福島や放射性物質が降り注いだ土地の小学生はいつもこれを身につけているそうです。これから生まれてくる赤ちゃんは、生まれた瞬間から毎日放射線を浴びるのです。毎日毎日それの数値が上がって行くのです。もし僕がその立場だったら何もやる気にならないと思います。
今日、僕たちはイエズス様が生まれた事をお祝いします。同じように、福島の赤ちゃんたちが生まれた事を素直に祝う事が出来るように、僕たちに何ができるか分かる力を与えてください。