カトリック平塚教会報 第101号 2014年 12月 24日発行
平塚教会主任司祭 トーマス・テハン
年を重ねるにつれて、クリスマスの時期が年々早くやってくるような気がします。
いつものように、願わくばみなさんがクリスマスをふさわしい方法でお祝いしようという気持ちになっていただけるような、何かを書くという使命が与えられました。
今年は、ヨハネ 1 章 14 節に焦点をあててみようと思います。次のような一節です。「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは、父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちている」。
この箇所を、マタイ 1 章 23 節と合わせてみると、クリスマスについて深く考えるべきことがたくさん得られます。そこには次のように書かれています。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は『神は我々と共におられる』という意味である」。
みなさんもお気づきかもしれませんが、ヨハネは最初に、「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」と、過去の出来事を過去形を用いて表しています。そして後半部では、「それは、父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちている」と、現在進行形に変化させています。
ここでわかることは、ヨハネは、ナザレのイエス誕生という歴史的出来事については過去形を用いて述べ、御子を通して父の栄光の恵みと真理について述べる時は現在進行形を用いているということです。言い換えれば、神のみ業は現在進行中ということです。受肉の神秘を根本的に理解しようとするために、物事を過去、現在、未来と分ける必要があるのは私たち人間の側なのです。それではここでクリスマスに目を向け、私たちがいつもクリスマスについてどのように語っているか見てみることにしましょう。
思い返すと、子どものころ、クリスマスは強いあこがれの気持ちをもって楽しみに待ち続けるものでした。全寮制の学生時代、9 月に学校にもどり最初にやったことは、机の天板の裏側に自分が作ったカレンダーを貼る、ということでした。クリスマス休暇まで、一日一日が過ぎるたびにカレンダーに線を引いて消していきました。当時、家族や家の快適さから離れて過ごした全寮制の学校での生活は厳しいものでした。家族から手紙が届くと、もうすぐクリスマスだ、という気持ちになりました。
また、私が子どものころ父が営んでいた、生まれたばかりのひよこを扱う店のショーウィンドウを飾りつける父の姿を思い出すと、幼少期のころの自分が心によみえってきます。冬の寒さにもかかわらず、大人も子どももひよこを見るのが大好きでした。父の店では、クリスマスにはオモチャを売っていました。クリスマスイブは、最後のお客様がかけこんで店の棚の商品をほとんどきれいに買っていかれるまで、家族総出で店の手伝いをしました。
クリスマスの日になると、それぞれの家族でお祝いをします。飾りつけされた家で、キャンドルを灯したクリスマスの食卓に家族全員が着きます。特別な食べ物がたくさん用意されます。プラムプディングには、ウィスキーをかけて火をつけます。
すばらしい食べ物や飲み物で、私たちの顔も輝きます。満足感と家族の一体感がそこにはあります。夕方、静けさの中で、キャンドルが灯された教会の馬小屋を見に家族一緒に出かけた後は、家に帰って家族でトランプゲームをします。
私の幼い頃の経験から言うと、クリスマスというのは予定を立てて、楽しみにしているものなのです。これらの経験のおかげで、待降節はキリストが来られる準備期間なのだという理解が深まりました。2000 年前の出来事は小さな部分ですが、重要な部分は未来に重点が置かれていました。私はものの見方について考えてきたわけですが、このものの見方が十分ではないということがわかりました。もちろん、受肉というのは未来の側面があるわけですが、より重要なことには、それは現在の現実だということです。
ヨハネもマタイも、神のみ業を現在形で描写することによって、その側面をとらえています。神は聖霊を通して本当に私たちと共にいます。私たちは、祈りの目的が神とのつながりにあると認識することによって、この神秘に加わるように呼ばれています。私たちは神のうちにあり、神は私たちのうちにあります。神はすでに私たちの中に宿っています。その現実が私たちの信念であり希望です。この信念と希望が、私たち一人ひとりを通して神のあふれる愛へと導いてくださいます。それを認識することが、このクリスマスに私たちが行うべきことなのです。