カトリック平塚教会報 第118号 2020年8月15日発行
平塚教会主任司祭 トーマス・テハン
ミサは三密を避け、席の間隔を空けて行われている今年は、ほとんどすべての人々にとって、混乱の年でした。新型コロナウイルスの脅威に立ち向かうのは、非常に困難なことです。しかしながら、このような危機的状況も、私たちが互いに助けあって生きていることを再発見する機会となり、人々の内にある最もよい部分を引き出すことになりました。多くの勇気ある方々が、他の人々を救うために自らの命を捧げています。普段であれば避けて通るような危険をおかしてまでも、他の人々のお世話をする方々も大勢います。これらは皆、我先に、という人々の一般的な考え方に逆行するものです。
聖母の被昇天は、私たちのルーツ、つまり、どこから来て、どこに向かうのかということに気づかせてくれます。私たちの人生のモデルとして、聖母マリアを振り返るのによい機会だと思います。
マリアは常に神に目を向け、早い時期から祈りの生活をしていました。愛があふれる家族に支えられ、日々の生活の中で神の愛を感じていました。彼女は、すべてのことを神の贈り物として受けとっていたため、神がマリアのために用意していたことに対して、常に心を開いていることができたのです。そのため、神のいかなる呼びかけにも応えられる準備ができていました。「神のお告げ」に関するルカによる福音の記述は、マリアの信心深い対応のすばらしい記録となっています。
彼女は、神の母となることによって何が求められているのか、完全に理解することはできませんでしたが、母となることについてすべてを神の御手に委ねました。そうして彼女は、神の御姿を世に現すことができたのです。聖書には他にも、マリアの状況について書かれた箇所が数カ所あります。カナの婚礼では、まったく別の立場で、ワインがなくなったため若い二人のことを心配していました。マリアには強い信仰心と勇気があったため、イエスでさえ、必要な場面では意思を曲げて対応することがありました。苦しみや悲しみもマリアの対応の一部でした。十字架にかけられた息子イエスの死に、聖ヨハネとともに立ち会った時には、そのような状況でした。
洗礼式の時、神の御姿の中の私たちの存在は明らかにされます。そして私たちは、神に似たものとなるように生涯努力します。しかしながら、若き日の旅路では、私たちはつい自己中心的になってしまい、物事を自分達のために考える傾向があります。私たちは自我を育て、他の人と異なる個性を、人間として身につけていきます。自然界のものも同様です。花は種から成長し、開花するまですべての栄養を自分自身の中に取り込んでいきます。そして衰えはじめると、生命が途絶えぬように種を放出します。
若い時には、自分に必要なことばかりを考え、必要以上に蓄えてしまう傾向があります。できることならば、歳をかさねるにつれて、物を持てば持つほどそれだけ重荷を背負わされる、ということがわかるようになればと思います。例えば、より少ないことがより多いことを意味するような、人生の逆説に気づくようになればと思います。
苦しみや困難は人間の常ですが、それらの難題に向き合うことによって人は成長します。つまり、人は愛の本当の意味を、深いレベルまで知ることを学ぶのです。愛とは、私たちを人生の道に立たせてくださる神の恵みを、大切に受け取ることです。一方、自らのために得ること、また、他の人々との分かち合いを避けることは、創造物である私たちのために神が意図した、「相互に助け合う関係」を壊してしまう行為です。愛は自由に与えることであり、死や破壊は力で奪うことです。
私たちも歳をとれば、所有物を手放さなければなりません。ほとんどの人々にとって、最終的に自らを神の御手に委ねるのは、死が近づいた時です。私たちはイエスのように、苦しみながらも、他の人々のために自らの命を捧げることができるでしょうか。マリアは、自ら私たちのモデルとなることによって、それを実践しました。私たちもできることならば、強い信仰と勇気を持って、人生をまっとうしたいものです。
マリアは私たちの代表として、祈り続けてくださいます。聖母の被昇天を、喜びをもってお祝いしましょう。
(訳:M.U)