御手に委ねること

特集 新型コロナウイルスと教会

新型コロナウイルスは、教会にも大きな影響をおよぼしました。今後も、第2波、第3波の影響が危惧されますが、とりあえず今年3月から7月までの動きをまとめて特集します。

【教皇フランシスコのことば】

はじめに、今年3月27日に行われた、新型コロナウイルス感染拡大にあたっての「特別な祈りの時」での、教皇フランシスコのことば(前半のみ)を紹介します。

「その日の夕方になって」(マルコ4・35)。このように、先ほど朗読された福音は始まります。ここ数週間は、いつも夕方のようです。深い闇が、わたしたちの広場や通り、町を覆い、わたしたちの生活を奪っています。異様な静けさと悲しい喪失感がすべてを覆っています。闇はそれが触れるすべてのものを麻痺させます。そのことが大気中に感じられます。人々の態度やまなざしもそのことを物語っています。わたしたちは恐れおののき、途方に暮れています。福音の中の弟子たちのように、思いもよらない激しい突風に不意を突かれたのです。わたしたちは自分たちが同じ船に乗っていることに気づきました。わたしたちは皆、弱く、途方に暮れていますが、大切でかけがえのない存在です。わたしたちは皆ひとつになるよう招かれ、互いに慰め合うよう求められています。この船の上に……わたしたちは皆、ともにいます。「わたしたちが溺れ死んで」(38節)しまうと不安げに一斉に叫んだあの弟子たちのように、わたしたちも、ひとりで勝手に進むことはできず、皆がひとつになってはじめて前進できることを知ったのです。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: 03f1ebec72a31ab275429157525a03a1.jpgこの一節を自分たちに当てはめるのは容易なことです。難しいのは、イエスの態度を理解することです。弟子たちは当然のことながら、不安におびえ絶望していますが、イエスは、最初に沈み始める船尾にいます。どうしておられるのでしょうか。騒ぎのさなかにも、御父を信頼してぐっすり眠っておられます。福音の中で、イエスが眠っているのはこの箇所だけです。イエスは目を覚まし、風と波を静めてから、弟子たちの方を向き、厳しい口調で言います。「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか」(40節)。

ここで考えてみましょう。イエスご自身の信頼感に比べて、弟子たちの信仰には何が欠けているのでしょう。弟子たちはイエスを信じるのをやめたわけではありません。現に、イエスに救いを求めています。しかし、その求め方が問題です。「先生、わたしたちが溺れ死んでも、かまわないのですか」(38節)。「かまわないのですか」と言っています。彼らは、イエスが自分たちのことには関心を示さず、注意も払わないと思っています。わたしたちや家族がもっとも傷つくのは、「わたしのことなど、どうでもいいのでしょう」ということばを聞くときです。それは、わたしたちを傷つけ、心をかき乱すことばです。イエスの心も揺すぶられたことでしょう。イエスほど、わたしたちを大切にしてくださるかたは他にはいないからです。実際、イエスは弟子たちから助けを求められ、絶望している彼らを救います。

嵐はわたしたちの弱さを露わにし、うわべだけの偽りの信念を暴きます。その信念のもとに、わたしたちは自分の予定、計画、習慣、優先事項を決めているのです。わたしたちが眠り込み、自分たちのいのちと共同体をはぐくみ、支え、強めてくれるものを忘れ去っていたことを、嵐は露わにします。嵐は、なんでも「しまい込もうとする」あらゆる考え、さらには人々の心を豊かにするものをわたしたちが忘れかけていることを露わにします。うわべだけのものを「貯め込む」ことによって人々の心を麻痺させ、自分のルーツに触れることも、高齢者の記憶をたどることもできなくし、この危機に立ち向かうために必要なものをわたしたちから奪っているものを、嵐は露わにします。

わたしたちが自分のイメージのことばかり考え、自分のエゴをごまかすために用いてきたステレオタイプという仮面が、嵐によって剥がれ落ちます。そして、決して奪うことのできない、共通の(祝福された)帰属が再び明らかになります。それこそが、兄弟姉妹としての帰属です。

「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。主よ、今夜、あなたのことばがわたしたちの胸を打ちます。あなたのことばは、わたしたち全員に向けられています。あなたがわたしたちよりもずっと深く愛しておられるこの世界で、わたしたちは目まぐるしい速さで突き進み、自分が強力で何でもできると思い込んでいました。利益を貪欲に求め、物事に没頭し、あわてふためき混乱していました。あなたの呼び声を聞いても立ち止まらず、戦争や地球規模の不正義を前にしても目を覚まさず、貧しい人の叫び声にも、ひどく痛めつけられている地球の声にも耳を傾けませんでした。わたしたちは病んだ世界でつねに健やかに生活する方法を、あくまでも考え続けてきました。荒波にもまれ、わたしたちは今、あなたに切に願います。「主よ、どうか目を覚ましてください」。

「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。主よ、あなたはわたしたちに呼びかけておられます。信じるよう呼びかけておられます。それは、あなたがおられることを信じるだけでなく、あなたのもとに行き、あなたにより頼むようにとの呼びかけです。この四旬節、あなたの差し迫った呼びかけが聞こえます。「回心せよ」、「今こそ、心からわたしに立ち帰れ」(ヨエル2・12)。主はこの試練の時を選びの時とするようわたしたちに求めておられます。それはあなたの裁きの時ではなく、わたしたちの判断の時です。何が重要で、何が一過性であるかを識別し、必要なものとそうでないものを見分ける時です。人生が向かう方向を、あなたと他者に向けて定め直すときです。
わたしたちは、その歩みの模範となる大勢の仲間に目を向けることができます。たとえ恐怖にかられても、自分のいのちを差し出した人々です。この勇気あふれる寛容な献身に注ぎ込み、それらを動かしているのは、聖霊の働きの力にほかなりません。わたしたちをあがない、生かし、わたしたちの生活がいかに一般の人々――忘れられがちな人々――によって織りなされ、支えられているかを示してくれるのは、聖霊のいのちにほかなりません。そうした人々は、新聞や雑誌のタイトルや、最新の舞台を飾ることはありませんが、わたしたちの時代の重要な出来事の今このときを刻んでいます。医師、看護師、スーパーマーケットの従業員、清掃員、介護に携わる人、輸送関係者、治安当局、ボランティアの方々、司祭、修道者、そして自分の力だけでは救われないことが分かっている他の多く人々です。
人類の発展の真価が問われるこの苦境の中で、わたしたちはイエスの祭司的な祈りを見いだし、唱えます。「すべての人をひとつにしてください」(ヨハネ17・21)。どれほど多くの人が、パニックではなく共同責任の種をまくよう心がけながら、忍耐強く日々、希望を広めていることでしょう。どれほど多くの両親、祖父母、教師が、生活習慣を変え、目線を上げ、祈りを深めることを通して危機に向き合い、危機を乗り切る方法を、なにげないしぐさによって子どもたちに伝えてきたことでしょう。どれほど多くの人が祈りをささげ、すべての人のために犠牲をささげ、とりなしを願っていることでしょう。祈りとひっそりと行われる奉仕。それこそが、わたしたちを勝利に導く武器です。(後略)

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