カトリック平塚教会報 第111号 2018年 4月 1日発行
平塚教会主任司祭 トーマス・テハン
今年は、横浜教区の各教会で、聖油を迎える行事が初めて行われます。それは、聖木曜日のミサのはじめに行われます。聖油には、聖香油、洗礼志願者の聖油、病者の聖油の3つがあります。
横浜教区では、聖週間の水曜日に聖油のミサが行われます。そのミサは、梅村司教の司式のもとに、各教会の司祭たちとともに捧げられます。聖香油はミサの中で奉献され、洗礼志願者の聖油と病者の聖油は、ミサの前後に祝福されます。
聖香油は、洗礼式と堅信式の中で用いられます。洗礼志願者の聖油は受洗準備のために、そして病者の聖油は、病の中にある方々のために用いられます。3つの聖油の中で、最も多く使われるのは病者の聖油です。
ここで、病者の聖油の使用について考えてみたいと思います。最近、102歳の女性に、自宅で病者の塗油をしてほしいとの依頼を受けました。ご自宅を訪問すると、6名の方々に迎えられ、その女性はベッドに横たわっていらっしゃいました。塗油のための祈りを始めると、女性が手のひらを上にしたまま両手をベッドカバーの上で伸ばしていることに気がつきました。祈りを続けると、女性の右手が私の右手の方へ伸びてきたので、私はとっさに女性の手をとって握り、塗油を続けました。
私は、何か驚くべきことが起きていることに気がつきました。その女性の娘さんも、そこで起きたことを見て、塗油のあと私に、「母は神父様の声が分かっていたと思います。だから、あのように手を伸ばしたのでしょう」とおっしゃっていました。居間のテーブルの写真立てには、女性が受洗した時の写真がありました。12年ほど前、洗礼を授けたのは私でした。その女性は安心した様子で、病者の塗油が終わるころには、眠りについていました。
思えばこれまで、あのように両手を大きく広げた高齢の病者に出会ったことはありませんでした。しかし、塗油の際には、どの方にも何か捧げるものがあり、それはまず間違いなく言葉によらないものであるということを、私はこれまで何度も経験してきました。病者の塗油は、特に死の間際にある方々にとって、大きな癒しとなるものです。
共同体としての祈りは、私たちの中心にキリストがいらっしゃるという証しであり、父と子と聖霊との関係を思い出させてくれるものです。三位一体における愛とつながりは、それ自体のためにあるのではなく、創造とともに私たち皆に共有されるのです。いっぱいに広げた女性の両手と、手を伸ばしたいという望みは、人生における三位一体の意味の、力強い象徴であると私は感じています。それは、私たち皆がそのつながりの中に加わり、命の流れの中で踊るように誘っているかのようです。
その女性は5日後に息を引き取られました。私はご家族やご友人とともに、葬儀のミサを捧げられたことに、心から感謝しました。私たちは、時に生命の神秘に近づくことがあり、それを小さな復活の時と捉えることができるかもしれません。そしてそれは、三位一体の働きによって、私たちの人生を少し変えるための助けとなるかもしれないのです。