秩序 – 無秩序 – 再秩序

新しく受洗・受堅された方の声

 去る4月19日、復活の徹夜祭のミサで、新しく受洗・受堅された4人の方々から、原稿をいただきました。

カトリック、そして平塚教会との出会い

カタリナ Fさん

 はじめてキリスト教に関心を抱いたのは高校2年生の夏でした。親族に信徒はまったくおりませんでしたので不思議ですが、キリスト教を専攻する大学の学科を受験したい意思を母に告げました。「信仰を持つにはあなたには早過ぎる」と言われ、その時はその受験も信仰に触れることも一旦あきらめました。もっとも当時はキリスト教についてほとんど何も知らず、自ら知ろうとする行動もとってはいませんでした。
 数年後、病を経て別の大学に入学しました。コロナ禍のオンライン授業だったことも影響し、生活のリズムを崩してすぐに休学手続きをしました。休学中に自分と向き合う機会を作ろうと思ったものの、どうしたらそのような場を得られるものか分からずにいた際、母から「教会に行ってみてはどうだろう」と勧めてもらいました。母のお知り合いである N・・さんと Yさんが平塚教会にいらっしゃることを聞き、人見知りである私も行ってみようかな、とある日のミサに飛び入り参加をしたのがご縁の始まりでした。
 信仰と出会う以前は、自分からの社会や人との距離の取り方ばかり考えていましたが、共同体という存在に捉えられる体感をミサで受けるうち、他者とのかかわりに、受け入れ、受け入れられることに、神様のお導きが働いているのだと気付くようになりました。
 「目に見えないものは信じない」という人も世の中にはいるでしょう。しかし普段私たちがあずかるシステムや使う物に、意味や信用という目に見えない価値を見出して成り立っているのが人間社会だと思うのです。その時、その意味や成り立ちについて振り返ることをせず当然と過ごし続けることに、何かのきっかけですべて疲れてしまったりすることが、ある時人には訪れたりもするのではないでしょうか。少なくとも私はそうでした。自己が恩恵を受け、時に負担をかけずには生きていけない世界に、個人的な体験が想いを馳せる器として、信仰や祈りはそこにあると思います。
 清らかであり切れずともそうあろうと努めるところが、人間の美しさや人間らしさなのだろうと、神様からいつも厳しく促されているような気がします。
 受洗式は万全の体調ではありませんでしたが、有難く洗礼を授かるかたちに至りました。人として信徒として成長できるよう、いつも正してくださる神様と教会の存在に感謝しております。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。皆様、暑さきびしい折、くれぐれもご自愛ください。

受洗に際して

ヘルマン Uさん

10歳の頃、箱根・強羅の教会の中に入ったことが初めての出会いでした。神々しい神聖な雰囲気に包まれ、何故か涙が止まらなかったという不思議な経験でした。誘ってくれたのは妹です。大学生になり、友人からプロテスタントの教会へ誘われ、暫く通いました。牧師さんのお話や聖書を通じて、少しだけ分かってきたつもりでしたが、それは頭の中だけでした。ビリー・グラハム伝導師の講演会にも参加しましたが、ピンと感じることはなく、武道館に集まった同世代の大勢の若者たちが熱狂的になるのを不思議に感じていました。
その後、クリスチャンだった家内と出会ったのが私にとって幸運です。家内の母は慈愛に満ちた聖母マリアを感じさせる優しい方でした。私は仕事のストレスを口実に休日は海へ行くばかり。家内が帰天してからたまに教会へ足を運ぶようになりましたが、それは家内へのお詫びの気持ちからでした。 イエスの言葉で「私は道である」が好きです。若い頃は、この道を行きたいと感じていましたが、今は、この道を行くんだという気持ちが湧いてきます。そして「この世の中でもっとも大いなるものは愛である」が心に強く響きます。
この度受洗させていただきましたが、テハン神父様と H・・様からの温かいお心遣いとご指導を頂いたことが受洗に繋がりました。長い間、カトリックへの憧れを持ち続けていたこと、そしてやっと実現したことを嬉しく感じています。現在は婚姻の式を挙げてくださったホイヴェルス神父様の著書や尊敬する犬養道子さんの著書などを通して、カトリックの素晴らしさを満喫しているこの頃です。
受洗の際、沢山の方々から優しいお言葉をかけてくださり、胸が一杯になりました。厚く感謝し御礼申し上げます。

わたしの洗礼

メアリー フランチェスカ Tさん

私は2025年4月19日、カトリック平塚教会で洗礼の恵みにあずかりました。
幼い頃から神さまの存在を漠然と感じてはいましたが、深い確信に至ることはありませんでした。
2024年2月、平塚に引っ越した母を訪ねて夫と共に訪れた際、海へ向かう途中で平塚教会の前を通りかかりました。夫がふと「きれいな教会だね」とつぶやいた、その一言が今も心に残っています。
その3日後、元気だった夫は突然の病で、私の隣で眠るように天に召されました。
悲しみに押し潰され、正気を保てない絶望の中で、「私は平塚教会に行くんだ」と心に浮かんだことを鮮明に覚えています。
生きる気力を失い、外に出ることも、眠ることさえも怖く感じる日々。
そんな中、クリスチャンだった兄が「マンガ聖書、読みやすくて面白いよ」と勧めてくれたのをきっかけに、私は夢中で読み始めました。親しみやすい形を通して、私は聖書の言葉に初めて深く触れることができたのです。そこに書かれていた神さまの御言葉は、胸の奥深くに響き、ボロボロだった私を少しずつ癒してくれました。
そして私は、幼い頃から漠然と感じていた神さまに、やっと出会えたという確信を持ちました。
同時に、今までの自分の歩みや行いが、鮮明に心に映し出されました。
当たり前のように思っていた日々の恵み、自分の力だけで生きていると思い込んでいたこと。他人の過ちには敏感でも、自分の傲りには目を向けずにいたこと。これらが自分の心をどれほど虚しく、荒れた場所にしていたかに気づいたのです。
それでも神さまは、そんな私を見捨てず教会へと導いてくださいました。
この赦しと憐れみに、ただただ感謝するばかりです。
迎えた洗礼式では、神様の愛と共同体の温かさに包まれました。忘れられないのは、連願の祈りのひとときです。天と地がひとつになり、聖母マリア、日本の殉教者、すべての聖人が本当に傍にいて、共に神さまに祈ってくれているような感覚に包まれました。その祈りの中で、「神さまは私達と共にいてくださる」と、心の奥から確信しました。
教会は、悲しみや孤独の中にあった私に、神さまの愛を感じさせてくれる場所でした。一人で祈るだけでなく、祈り合い、助け合い、共に悲しみや喜びを分かち合う共同体です。神さまと共同体の愛がなければ、私はこの深い苦しみを乗り越えられなかったと思います。
神さまの愛の中で、これからも希望を持って未来に向かいたいです。

主の恵みに感謝して

マリア フランチェスカ Tさん

神さまの導きの中で、私の信仰の歩みが始まったのは、2年前の4月でした。当時は東京で暮らしており、自宅近くのプロテスタント教会(日本基督教団)に通い始めました。その後、息子と共にその教会で洗礼を受け、信仰の第一歩を踏み出しました。
やがて、海や山に囲まれた自然豊かな平塚の地に心惹かれ、2024年2月に引っ越してまいりました。新しい土地での生活には期待とともに戸惑いもありましたが、導かれるようにしてカトリック平塚教会と出会い、2025年4月に堅信と初聖体の恵みにあずかることができました。教会の方々は皆あたたかく迎え入れてくださり、その優しさと祈りに支えられて、今では毎週ミサにあずかれることが私にとって何よりの喜びとなっております。
振り返ると、私の心のどこかにはいつも神さまがいらしたように思います。幼い頃から、パイプオルガンや聖歌の音色に安らぎを感じていました。中でも深く心に残っているのが、9歳のときに心臓弁膜症の手術を終えた後の体験です。幸いにも手術は無事成功し、母とともに執刀医のご自宅にお礼のご挨拶に伺った際、私はひとつの置物に目を奪われました。それは「十字架」でした。先生の奥さまが優しく「これは十字架っていうのよ。私たちは教会に通っているの」と教えてくださった、その穏やかな光景が何十年経った今でも鮮やかに私の心に残っています。
これからも、神さまからの恵みとお導きに感謝しながら一歩一歩、信仰の道を歩んでいきたいと思っております。
平塚教会の皆さまと過ごす日々が、ますます祝福に満ちたものとなりますように。これからもどうぞよろしくお願いいたします。


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