カトリック平塚教会報 第99号 2014年 4月 20日発行
平塚教会主任司祭 トーマス・テハン
天地創造のときから、自然は人間にとって様々なことを教えてくれる偉大な教科書です。私たちには、春、夏、秋、冬という慣れ親しんだ年間の周期があります。人間の一生もまた同様に、誕生、幼少期、壮年期、老年期、死という、周期的な期間でとらえられることがあります。動植物の世界を純粋に科学的に見れば、おそらくそのような結論となるでしょう。
このような一元的なものの見方の中に、何か大きく欠けているものはないでしょうか。三次元的なものの見方があったらどうでしょうか。イースターは、この三次元的なものの見方があることを、私たちに思い出させてくれます。ユダヤ人は、周期というよりも直線的に歴史をとらえてきました。永遠の現在という、神の存在を示す方法で人生を祝福することができることは、ユダヤ人が人類に与えてくれた贈り物と言えます。ユダヤ人は過去、現在、未来の三つの要素を合わせながら、典礼を通して行事を祝います。この偉大な伝統に続き、私たちキリスト教徒も典礼を通して人生を祝福します。
私たちの典礼では、受難の主日、聖木曜日、聖金曜日、復活祭前夜、そして復活祭と続く聖週間が、大きな山場となります。私たちは、過去、神様がしてくださったことを思い出し、現在神様がしてくださっていることを認識しながら現在を生き、そして神様が私たちに明かしてくださる未来に願いをもつのです。イエス様は、ご自身の生涯と死を通して、これが父である主の愛し方であることをお示しになりながら、全ての世代の人々の恩恵となるように、まさに同じことをなさいました。イエス様の最初の弟子や信奉者は、イエス様のご復活の証人であり、この大切な教えは教会を通して私たちに引き継がれてきました。私たちは、この事実が信仰をもつ人々にとってどれほどすばらしい贈り物であるかと、感謝をすることを怠ってしまうことが時々あります。この事実が意味することや、真実を生きることが自分たちの生き方であるということを、今日の世界の人々がどれくらい知りたいと切望しているでしょうか。
私にとって人生の三次元的な見方とは、次のようにまとめることができます。「過去は歴史」、「未来は神秘」、「現在(この瞬間)は神様の贈り物」です。
まず「過去は歴史」について考えてみましょう。成長したということは、変化した、何度も変化した、ということです。苦痛や苦難はその過程の一部です。過去の出来事をそのままにしておくことは全ての人にとって大きな難題で、誰も自分一人ではそのようなことはできません。多くの人たちは、過去、とりわけ過去の罪に心を苦しめています。「現在」に対する「過去」の否定的な影響をできるだけ軽減するためには、救済者も必要です。「過去」を強さと慰めの源として利用することによって、「現在」に積極的に貢献するものとしてしまうことができれば、「現在」へと心が解き放たれ、現在の人生を最大限生きることができます。
次に、「未来は神秘」について考えてみましょう。「未来は神秘」というと、「神の御手にある」という言葉を思い出します。私たちは、過去において無力にも未来を支配しようと努力しますが、結局、「事を計るは人、成すは天」ということを思い知らされます。私たちの不満のほとんどは、自分自身や周囲の人々の将来に対する計画の成果を確実にしようと努力することから生じるものです。それは、まるで磁石のようなもので、私たちは未来の可能性に魅了され、思考の過程を止めて心にゆとりをもつことが難しいと思うことによって、エネルギーを浪費するのです。それはまた、終わりの無い中毒症のようなもので、多くの若者がコンピュータゲームに没頭する様子にも表れています。未来を神様の御手に委ね、神様や他の人々とともに未来を見極めることができれば、私たちは現在、この時に、全ての注意を注ぐことが可能となります。
神様とともに今この時を迎えるならば、現在の瞬間が「永遠の現在」の中に組み込まれ、小さなひとつひとつの愛に満ちた行動が、計り知れない無限のものとなるはずです。そのようなことを理解できたことに感謝する、それも復活祭の神秘なのです。現在、この瞬間が神様からの贈り物です。みなさんにとって幸せなご復活祭となりますように。