キリシタン大名 ユスト高山右近
天文二十一年(1552年)~慶長二十年(1615年)
日本のカトリック教会は、1949年から65年間、高山右近列福に向けて運動をしてきました。バチカンに調査を要望し続けてきた結果、右近帰天400年に当たる今年度、実現する可能性が高まっています。
ユスト高山右近の生涯
ユスト(ジュスト)とは正しい人という意味です。その名のとおりに生きた武将でした。
右近は摂津の国(大阪府)高山で生まれ、6歳から沢城(奈良県)に住み、父ダリオ高山飛騨守(ひだのかみ)の受洗の翌年、12歳で洗礼を受けました。母マリアと多くの家臣も信者となりました。
この大名である父子は、地位のある者にも貧しい人々にも平等に接しました。このやさしさに感動し、おびただしい数の領民たちがキリシタンに改宗していきました。
天正元年(1573年)、右近は21歳で高槻城主となります。
神への絶対的な信頼
荒木村重が織田信長に反旗を翻します(1576年)。村重の配下にあった右近は、幼い最愛の息子と妹を村重に人質としてさし出して、謀反の撤回を求めました。しかし怒り狂った信長は、領民である宣教師とキリシタンたちを皆殺しにすると言い出しました。信長と村重との板挟みになった右近は、小聖堂にこもって祈り、神の言葉を求めました。その結果、領民の命を救うために、髪の髻(もとどり)を切り落とし、着物を巡礼用の紙の衣に替え、大名の地位も財産もすべて棄てる意思を表しました。
すると、信長はこの決意に心を動かされ、右近の領地を二倍にし、キリシタンの教えに基づいた政治を高槻で行うことをゆるしました。
秀吉の信頼を得る
天正十年(1582年)6月2日、明智光秀の謀反によって信長が殺害されます(本能寺の変)。右近と摂津衆が秀吉軍と組み、光秀を倒します。このとき光秀軍の死者二百名に対し、右近側は一人だけというほぼ完全な勝利でした。
この戦いで、秀吉から四千石を加増され、高槻は四万四千石の領地となりました。
秀吉は右近に、大阪城の近くに教会堂と右近の屋敷を建てさせました。右近は大名たちを教会堂に案内し、オルガンチーノ神父やパーデレたちの話をきいた大名や側近たちは信者になりました。また右近は茶人でもあったので、茶の湯の仲間の細川忠興、前田利家などもキリシタンに好意をもつようになりました。秀吉もこのころはキリシタンに好意を示していたのです。
右近は播州(兵庫県)を与えられ、明石に居を移します。石高(こくだか)が大幅に増えました。この領地でも父ダリオとともに信仰を広め、二千名の領民がキリシタンとなりました。
秀吉の豹変
イエズス会のコエリョ神父一行が秀吉に謁見するために九州から訪ねてきました。秀吉はパーデレたちに、キリスト教布教の許可証を与えました。
しかし天正十五年(1587年)7月24日、秀吉は突然、伴天連(バテレン)追放令を出します。「余はバテレンの弟子じゃ」と冗談を言ったほんの数日後でした。理由はよくわかっていませんが、伴天連たちが布教ではなく、植民地化する意図で来日したと疑念を抱かせるような、コエリョ神父の言動が原因という説もあるようです。
金沢での功績
右近は、家臣や領民たちの生活を案じましたが、信仰を守るため、明石城を手放しました。小西行長が用意した隠れ家に入り、右近一家は神にすべてをまかせ、祈りの日々を過ごしました。翌年、肥後の国(熊本県)に移り、有馬晴信を訪ね、修練院にこもりました。
秀吉は右近の居所をつきとめ、加賀の国(石川県)に送り、前田利家にあずけました。利家は右近を重要な家臣として、高岡城修築をまかせました。治水技術をもつ右近は濠を造り、完全防備の城が完成しました。
二十六聖人の殉教
スペインの貿易船・サンフェリペ号が嵐に遭い日本に寄港したとき、秀吉の配下の奉行が襲って積み荷を没収してしまいました(サンフェリペ号事件)。船長が腹いせに、日本を領土にするため宣教師を送り込むと脅したため、脅威を覚えた秀吉は、それまでうやむやになっていた禁教令を強化したのです。キリシタンたちを、京都から長崎まで、寒い中を歩かせて、西坂の丘で処刑するというものです。
処刑されるキリシタンの名簿の筆頭に右近が載っていましたが、石田三成が削除させました。三成は、右近が十年も処刑されずにいたのは、秀吉が右近を武士として信頼しているからだろうと考えたのです。
しかし右近は殉教を望み、名乗り出ようとしました。前田利家に別れの挨拶に行くと、利家は、「勇敢で潔癖で教養もあり、日本で第一の武将となれるのに、信仰に生きる道を選んだ」と右近をたたえ、自分もキリシタンになりたいと言いました。
秀吉は二十六聖人殉教の一年後、生涯を閉じました。右近の、命も惜しまない信仰心と、キリシタンたちの結束の固さに恐れを抱きながらの最期となったのでした。
徳川家の台頭
秀吉の死後、徳川家康が天下をねらい、石田三成と天下分け目の戦いを交わしますが(関ヶ原の合戦)、半日で家康の勝利となります。右近はこの戦いの後、加賀から能登を布教します。そこに他の地方からキリシタンたちが集まってきました。
家康も右近に一目置いていましたが、江戸幕府が確立すると、植民地化を懸念したのか、それまで放置してきたキリシタンを迫害し始めました。パーデレたちを国外追放し、キリシタンたちに残酷な刑を科す大迫害でした。
国外追放される
慶長十九年(1614年)2月5日、右近は25年居留した金沢を去ります。右近62歳。受洗から50年でした。右近たちを引き連れていく役人が、病を得ていた右近にかごに乗るように勧めましたが、右近は断り、雪の険しい峠を自分の足で越えて行きました。
大阪から船で長崎に行き、諸聖人教会で祈りながら家康の命令を待ちました。その間、右近を暗殺しようと徳川からの刺客が追ってきましたが、なぜか失敗しています。
豊臣秀頼が、武将として優れている右近を大阪城に迎えようとしていました。また、茶の友人である細川忠興も右近に生き伸びるように説得しましたが、右近は救いの手をことわり、余生をイエスにささげたいという決意を曲げませんでした。
フィリピンでの栄光
家康は右近をマニラに流します。慶長十九年10月8日、右近たち追放者は、ぼろぼろの劣悪な小型船に詰め込まれ、暴風の中をマニラに向かいます。普通なら十日の船旅のところ1ヵ月近くかかりました。
マニラに到着すると、市民の大歓迎を受けました。祝砲がとどろき、馬車でイエズス会マニラ本部に向かうまで、延々と人垣が続き、教会の鐘が鳴り響きました。
スペインのマニラ総督が右近に生活費を与えようとしましたが、右近はマニラでも質素な生活を望み、総督の申し出を辞退しました。
やがて病状が悪化し、家族に信仰を失わないように励まして、ユスト高山右近は、慶長二十年(1615)年2月3日、帰天しました。
列福、列聖の条件として、殉教者であるか、または奇跡の事実が必要です。
日本のカトリック教会は、右近の死は殉教に等しいと考えます。また聖性の高い人格で多くの人々をキリスト教に導きました。武将として優秀でありながら、その地位や財産を放棄し、神とともに歩む道を選ぶ勇者でもありました。窮地では必ず地方の大名たちが右近を助けます。暗殺も免れます。このように奇跡的事実の多い生涯は、高山右近の信仰の深さを証しするものではないでしょうか。