100号記念特集
高根台ホーム訪問記
1987年4月、第3号に掲載
昨年6月から壮年会で、教会外への奉仕活動をしようという話が出ていた。
まず我々で出来そうなことは、独居老人への訪問ではないかと考え、市役所の社会課へ伺ったが、平塚市では一般ボランティアに独居老人の訪問は認めていないとの事で、名簿は見せてもらえなかった。社会福祉協議会に相談したところ、高根台老人ホームでボランティアを求めているので、是非そちらへとのお話であった。老人ホームとなると全くの未経験。大勢のお年寄りに一体何が出来るのか、お先真暗であったが、当って砕けろと、ホームの指導員に会った。先方では我々の力量も分らないし、こちらも何が出来るということでもなく、指導員も困った様子であったが、取敢えず車椅子のお年寄りの散歩の手伝い、話相手、オムツたたみ等がどうかということであった。
いよいよ蝉の声も賑やかな8月の日曜日の午後、壮年会十余名のメンバーは恐る恐るホームへの訪問に出かけた。
そこには百名のお年寄りが住んでいるということ、そして歩けない人達があまりにも多いのにまずびっくり。寮母さんがベッドから車椅子に移して下さるお年寄りを一人ずつ、2階から、3階からエレベータで降ろして、庭の散歩が始まった。驚いたのはこの庭の狭いこと。同じところをぐるぐる廻るので、壮年会の顔が行ったり来たりで、皆でなんとなく苦笑い。話しかけても反応のない人、チンプンカンプンの返事が返ってくる人、ニコニコ笑っている人、自分の娘の名前を叫ぶ人と、我々は戸惑うばかり。少し話が通じるとホッとする有様でした。2階では慣れぬ手つきのオムツたたみ、これは全く様にならない。散歩の後ではオヤツを食べる手伝い、一口ごとに喉に詰って死にそうなおじいちゃん、あわてて寮母さんを呼ぶ始末です。
第1回訪問はこうしてアッという間に終った。次回は何をしたらと困っているうちに、次の訪問の時が来た。
寮母さんいわく、オムツたたみは気の毒だから、その代り散歩の後で、皆で昔の歌や軍歌でも歌ってくれないか、歌の好きなお年寄りが多いからとのことです。準備もなく思いつくままに皆で歌い始めた。歌い進むにつれて、今まで無表情の人、話もままならぬ人、体を殆ど動かせない人、そういう人達が段々歌い始め、顔に表情が出て来る、手拍子は打ち出す、ある歌に思わず涙ぐむ人がいる。我々は歌の及ぼす効果と力に、ただびっくりするのみであった。
この日のことをヒントに、壮年会では歌の準備にとりかかった。ハーモニカやギターの伴奏と進歩し、歌詞カードも整備された。勿論聖歌もレパートリーである。歌のリードは何でも来いのタレント壮年氏の音頭で、かくして音痴壮年合唱団が誕生し、徐々にホームの皆さんと心の通い合う場が出来始めた。そこへまた神様からの贈物か、歌は勿論アコーデオンも三味線もプロ級のY夫妻が、我々と同行して下さることになった。
11月末にはささやかなクリスマス音楽会も出来ました。山内さんのアコーデオンはどんなカラオケも及ばない素晴らしい武器で、どんなリズムの狂いにも直ちに合せてくれるので、お年寄りの皆さんの喜ぶこと、乗ること。軍歌を歌いながら昔を思い咽び泣くおじいちゃん、林檎のうたが大好きなおばあちゃん、点滴を続けながら天井を見たまま歌っているおばあちゃん、二人酒の得意な83歳のおじいちゃん、やっと動く片手で佐渡おけさを踊るおじいちゃん。こんな姿に出会うと、我々の胸にもジンと来るものがあるのです。そして又来よう、来なければと思うのです。
歌好きの指導員さんと献身的な寮母さん達、そして愛すべきおじいちゃんおばあちゃんのいる高根台ホームに、神様の愛と平和があふれんことを、祈らずにはいられません。
我々の勉強と祈りと愛を深めつつ、音痴壮年合唱団は今日も行く !!
土曜勉強会
1987年4月、第3号に掲載
この会がスタートしましたのは昨年の1月でした。
月に2回位、土曜日の午後、ご都合のつく方が小宅に集まって下さって、要理の勉強をし、みんなで分ち合いをしましょうという小さな勉強会です。いつの間にか回を重ねてこの3月28日で第30回となりました。振り返って見ますと、毎回5~11名、延べ226名の方が参加して下さいました。
この会は午後1時30分に始めます。初めに主の祈りをしましてから、Fシスターが約1時間お話をして下さいます。その内容はとても幅広く奥深いものですから、とてもここに要約できるものではありませんが、私たちキリスト者が誰でも良く理解し知っていてほしい事柄について、最初は旧約聖書から新約聖書へのつながりの要点のお話の中で、また主の祈り、信仰宣言、七つの秘跡などの詳しい解説の中で、さらに私たちにとって非常に大切な神様に対する感謝の祭儀でありますごミサについてのお話などを通して、非常に丁寧に詳しく話して下さいます。そして特に大切な事柄、例えば限り無い神の愛、人間の命とその触れ合いの尊さ、喜び等については、例え話を交えながら、皆さんがよく理解するまで何度でも繰り返し説明してくださいます。
Fシスターのお話のあとはみなさんお茶を頂きながら、最近感じている事、体験したこと、まだ理解の足りないこと等に就いて語り合い、分ち合いを致します。この時間は毎回約1時間位ですが、皆さんの心がひとつになり高まってまいりますと、時間のたつのを忘れて2時間になることもあります。最後に天使祝詞のお祈りをし、次回の日を決めて散会します。
この勉強会を始めまして本当に良かったと感じますのは、長い間、文字として記憶はしていましても、余り深くは考えず、理解をしていなかった事柄に就いて、非常に詳しくお話を聞き、神様への感謝の気持ちが一層強くなってきたことでございます。
また私にとって大きな喜びは、この会に積極的に加わり、一生懸命勉強してくれました主人が、心を神様に向けて大きく開いてくれたことでございます。最近は夫婦の語らいの中で、日に何度か必ず神様やイエス様のことが話題になり、その度に神様の深い愛、イエス様の恵み、聖霊の有難い導きに心から感謝しております。
皆様、もしお時間がございましたら、是非お越し下さいますよう、お待ち申し上げております。
亡き老画家の夢実らせ個展 平塚カトリック教会の信者たち
1989年12月、第11号に掲載された「読売新聞」の記事より
平塚市内の老画家がガンで亡くなり、身の回りを世話してきた平塚カトリック教会の信者たちが「この老画家の夢を実現させたかった」と、いま同教会信徒会館で初の個展を開いている。
老画家は、同市千石河岸2-15、小林保祥さん。明治38年、牧野富太郎博士に絵を習い、太平洋画会に入会。その後、台湾総督府に勤め、高砂族などの風俗、習慣を研究した。昭和15年から同市に住み、民俗学者の柳田国男に師事した。「日本人は台湾民族が黒潮に乗って渡ってきたもの」というのが持論で、“黒潮の道”シリーズと題して両民族の日常生活ぶりなどを描き続けてきた。
小林さんは個展開催を夢見ていたが、生活が楽でなく、果たせなかった。妻Yさん(87)も体が弱く、同教会の信者が相談相手になったり、世話をしたりしているうちに小林さんの夢を知った。信者たちは「私たちがお手伝いしよう」と、個展の準備をしていたが、小林さんは16日、91歳で亡くなった。
遺作展には11点が出品されており、21日まで。
フィリピンを訪ねて
1990年4月、第12号に掲載
フィリピンへ行かせていただいてから早くも半年を経て、ようやく客観的に、日本との生活・文化の相違点を認識できるに至りました。一言でいうと、何もかも日本とは違う世界でありますが、全体像を考えてみますと、豊かさに対する概念が異なっているのではないかということです。日本においては物質的に豊かとなった現在、人間の内面の豊かさへの憧れが強くなって来ているのではないかということに対し、フィリピンでは依然として、物質的豊かさへの憧れが強いのです。しかし、その反面、全人口の90%以上の人々がキリスト教で、しかもそれが日常生活と密接に関連しているという点は、私達よりも精神的に豊かであるのではないでしょうか。私とS・・君がフィリピンの滞在中にそれを最も感じたのは、人のもてなし方においてでした。私達が少しでもくつろげるようにしてくれる配慮は、なかなか出来るものではないと思います。そこにはやはり、相手を想う心というキリスト教的な精神が息づいているものと思われます。
日本は“豊かな国”であるとよくいわれます。しかし、現実には第三世界の資源、労働力を酷使しているという背景を考えると、他人を犠牲にしてまで物質的に“豊かな国”となったとしても、本来の幸福感は味わえないのではないでしょうか。とはいえ、そのような背景があるからこそ、私達の生活が成り立っているわけでありますから、もっと、フィリピンを初めとする人々のことを知る必要があると思います。
最近の流行として“援助”という言葉をよく耳にします。これはあたかも正義感溢れた言葉であるように思いますが、そこには自分達が相手よりも優位な立場から見下した考え方も含まれているのではないかと思います。“援助”は勿論大切なことであるのも事実ですが、横浜教区の指針のひとつになっている“アジアとの交流”というのを考える際に、そればかりが先行しては真の交流をすることは困難なのではないかと思います。以前、海外青年協力隊員のお話をうかがったことがありますが、彼らは何かを教えるつもりで行ったにも拘らず、むしろ、教えられたことのほうが多かったということを言われていました。このことは、“アジアとの交流”を考えるときに大きなヒントになります。
彼らの生活を知ることは私達の生活を知ることであり、もし南北問題に関心を示すならば、対等なパートナーシップを持ち、単なる同情では解決できない事柄であることを認識しなければならないのではないでしょうか。それが私達の“豊かさ”にもつながることと思います。
川の流れのように
1993年4月、第27号に掲載
何やら歌の題名のようですが、大勢の人が関わり合う組織や活動は、全て川の流れのように思われます。
私たち婦人会も、何年もの間、こうして澱みなく流れ続けてきました。
穏やかにゆったりと流れながら、岸辺の草むらを十分に潤して行く時もあったでしょうし、活発に激しくぶつかりあいながら、流れの姿を変えていったときもあったかも知れません。時には川底にひそむ大小の石にぶつかって流れをさえぎられ、渦を巻いて方向を見失いかけたり水が濁ってしまったりしたこともあったかも知れませんが、それでもいつも途切れることなく今日まで流れ続けてきました。
川が、その“流れる”という本来の作業を休まない限り、その時々に姿を変えることはよいことだと私は思います。いつも同じ量の水が同じ速度で同じように流れていたら、何と退屈なことでしょう。時には激しい流れが岸を傷つけ大きく方向転換したとしても、次の流れがスムーズに、しかも澄んだ水を満々とたたえるためであれば、澱んだ水垢をそのままにゆるゆるとただ通りすぎるよりは、ずっと意味があるように思われます。
「今までこうだった」ということはひとつの目安ではあっても「変えてはならない」ということではない筈です。ただ急激な変化は禁物で、流れをせき止めてしまっては何にもなりません。
さて、教会婦人会には大きな一本の柱があります。
「その年度の教会行事を恙なく進行させる役割」がそれです。典礼に基づく行事、親睦や分かち合いの為の行事、そして外部への働きかけや布教の為の行事等々……主旨は様々ですが、その目的は教会が心をひとつにすることです。さらに大切なのは、それを“祈りながら”実行して行くことでしょう。この柱がひび割れたりしないで不動のものとしておくためには、支える柱を沢山作りたいものです。丁度鍾乳洞で、一滴ずつ落ちるしずくがつららのように伸び、下に落ちたしずくは、しっかり受け止められてやがて下からも伸びてくる。
年長者の知恵と経験を若い人たちがしっかり受け止めた上で、自らが自由に行動する。こういう図式が定着したら、どんなにうれしいでしょう。現在、年配の方はこの貴重な宝を抱いたまま退かれています。定例の集まりは慣習的で退屈かもしれませんが、パイプはこれしかありません。どうぞ努力して出席し、お知恵を分けてください。幸い若い方々の活発な活動が芽吹き始めてまいりました。現在は教会学校のお母さんグループという形での活動ですが、これはとりも直さず婦人会にとっての素晴らしい支流だと私は考えています。
献堂40周年を迎える年に、婦人会も又新しいスタートラインに立てれば本当にうれしいことだと思います。
泣き部屋は卒業したけれど…
1997年9月、第48号に掲載
去年の4月、小学校へ入学した長男と2歳年下の次男がついに泣き部屋を卒業した。そして私と泣き部屋との12年間のつき合いにも、ようやくピリオドが打たれた。子供の成長と共に、年々仲間が世代交代していく中で、私はいつしか泣き部屋のヌシとなっていた。泣き部屋は、多少子供が泣いても騒いでも、少々のことなら許される、という気安さはあるが、神父様の話は子供たちの声にかき消され、ミサにあずかるというより、ガラス越しにミサを見学(見物?)という方がふさわしい。毎週「自分はいったいここへ何しに来ているのだろう」と虚しさを感じ、オリンピックではないが「参加することに意義があるのだ」と自らを慰めていた。それでも4人の子供たちは、「日曜日には親に連れられ教会へ行くもの」と信じ込んでいたし、日曜学校もあったので、私たち一家はよほどのことがない限り、毎週まじめに教会に足を運んでいた。
ところが、去年あたりから家族揃って教会へ、というのがなかなか難しくなってきた。長女がお友達と遊びに行く約束をしてしまったり、次女がサッカーの試合に出かけたり、おまけに最近では下の2人も「教会行きたくない」と言い出した。泣き部屋を卒業したのはいいけれど、聖堂で1時間じっと座っているのが相当苦痛なのである。「あと何分?」「もう帰りたい」「まだ終わんないの?」とひっきりなしに話しかけてくる2人に、大声でどなりつけることもできず、鬼のような顔でにらみつける私。御ミサは2人にとって試練の場、修行の場となっている。そんな悩める親子に注がれた一筋の光は「子供ミサ」である。「子供ミサ」にあずかった長男は、「いつもああいうのがいいな」とつぶやいた。子供ミサを積極的に取り入れて下さったブランチ神父様には感謝の気持ちでいっぱいである。
さて、この春には長女が中学校に入学する。これまで8年間、余り休むこともなく従順に教会へ通っていた彼女だが、先日は「日曜日ぐらいゆっくり寝たいのに……」とムスッとした顔で起きてきた。反抗期、思春期へさしかかる彼女が、今までのように教会へ足が向くかどうかとても不安である。両親クリスチャンという恵まれた環境にありながら、これまで家庭で、きちんと信仰教育をしてこなかったツケが一気に回ってくるのではないか、とちょっと怖い。
小さな4人の子供をゾロゾロ連れて教会へ行くのは結構大変だったが、大きくなった4人の子供を教会へ連れて行く方がよっぽど大変だと感じ始めている今日この頃である。