天正遣欧少年使節 4人の少年の物語 N.惠子
天正遣欧少年使節をご存じですか? 中学、高校の教科書で知った方もいるでしょう。実は、戦国時代の激しいキリシタン弾圧のあと、天正遣欧少年使節は誰も知らない存在になっていたのです。明治時代になって、岩倉使節団がヨーロッパに視察に行き、ベネチアで「日本から我々が初めて来た」と得意そうに言いました。すると「知らないのですか? あなた方より300年ほど前に日本人の一行が来て大歓迎されたのですよ」といわれ、その文書を見て初めて天正遣欧少年使節を知ったというのです。
✾天正遣欧少年使節とは
天正遣欧少年使節とは、1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代(みょうだい)としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節のことです。イエズス会の司祭・アレッサンドロ・ヴァリニャーノの発案で、その目的は、ローマ教皇とスペイン、ポルトガル両王に、日
本での宣教のための経済的、精神的援助を依頼するため、そして、日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後にルネッサンス後のヨーロッパの進んだ文明や偉大さを、日本人の口から日本人に語らせようというものでした。4人は、ヴァリニャーノ神父が長崎の島原半島に設立したセミナリオ(小神学校)の一期生で、神学やラテン語の成績がとくに優秀でした。主席正使・伊藤マンショは、大友宗麟の名代として選ばれました。日向の国主・伊東義祐の孫で、大友宗麟の血縁に当たります。ただ、何不自由なく育ったわけではありません。マンショの父は、彼が8歳の時に薩摩の島津氏との戦いに敗れました。マンショは父を失い、遠縁だった大友宗麟の領地に逃れ、そこで宣教師に出会って洗礼を受けました。
正使・千々岩ミゲルは、大村純忠と有馬晴信の名代として選ばれました。ミゲルは純忠の甥であり、有馬晴信の従兄弟でもありました。ミゲルの父が治めていた城は、隣国の龍造寺家との合戦で落城。父は戦死して、幼いミゲルは乳母に抱かれて戦火を逃れ、大村純忠のもとに身を寄せました。ミゲルは純忠の影響で洗礼を受けたといわれています。
副使・中浦ジュリアンの父親は、大村家の家臣、小佐々氏の一族で、中浦の領主・中浦純吉ではないかといわれています。中浦純吉は大村純忠を守るために戦死しており、ジュリアンは大村氏のもとで育ちました。
もう一人の副使・原マルチノは、大村氏の家来・原中務の子で、やはり大村の地で育ったといわれています。大村領内には、最盛期にキリスト教信徒が6万人以上もいたといわれているので、ジュリアンもマルチノも受洗してセミナリオに入ったのでしょう。彼らは13、14歳でありながら、教養・礼儀・美しさに併せ、信仰が篤く、思慮深く、稀に見る謙虚さと徳高さを備えていたと、ヴァリニャーノ神父や宣教師が書簡に書き残しています。
✾いざヨーロッパへ
使節には4人の少年のほかに、ヴァリニャーノをはじめ4人の司祭とひとりの修道士、それに3人の日本人が随行していました。
天正10年(1582年)2月20日、一行はポルトガルの大型帆船で長崎港を出発し、マカオ、インド・ポルトガル領のゴアを経由して進みました。アフリカの南端・喜望峰を回り、大西洋を北上し、ポルトガルのリスボンに到着したのは実に2年半後の1584年8月11日でした。
ポルトガルでは、イエズス会の上長や枢機卿に歓待されました。11月14日、スペインのマドリードに到着。イスパニア(スペイン)・ポルトガル王のフェリペ2世に招かれた4人は、武士の正装で身を固め、豪華な馬車に乗って王宮に向かいました。王は彼らを抱擁で迎えました。
1585年3月23日、一行はついに教皇グレゴリウス13世と謁見しました。ローマ市内では歓迎のために数百人のパレードが行われ、沿道の窓という窓には歓迎の垂れ幕が飾られていました。サンピエトロ大聖堂に、ヨーロッパ中の枢機卿が居並ぶ前で、教皇は滝のような涙を流しながら彼らをたたえ、手を取って抱きしめました。当時、プロテスタントと熾烈な争いをして、多くのカトリック信者を失っていた教皇にとって、はるか日本の大名がカトリックに改宗していたということは、大きな感動だったのです。
一行はスペイン国王、フィレンツェのメディチ家で大歓迎され、イタリア、ドイツでも4人をたたえた記事が多く出て、ヨーロッパで一大ブームとなりました。ヨーロッパでは、遠くの未知の世界は人食い人種がいると考えられていたので、礼儀正しく端正な少年たちが現れたのに驚き、感動したのでしょう。この派遣は見事に成功し、イエズス会は巨額の援助を受けることができたのです。
4人は教皇のもとで見聞を広め、8年後、1590年に帰国した時には、20代前半の若者となっていました。
しかし、彼らが日本を出立した1582年6月21日に、本能寺の変で織田信長が没し、帰国したときはすでに大村純忠と大友宗麟も死去していました。天下は豊臣秀吉が取り、「バテレン追放令」によってキリシタンを取り巻く状況は激変していたのです。
当時、キリシタン大名は全国におり、彼らがスペイン、ポルトガルと結び付くことは秀吉にとって脅威でした。フィリピンでは土地を奪われているという情報も、秀吉の耳に入っていました。1597年、秀吉が26人ものキリシタンを殺害すると、ヨーロッパではこの26人を英雄視し(二十六聖人)、日本でも秀吉の思惑とは逆にキリシタンは増えていったのです。
4人は天草に戻ってコレジオ(修練院)で勉学を続け、1593年に共にイエズス会に入会しました。ただし、1604年以降、千々石ミゲルは名簿から削除されています。彼はイエズス会を脱会していました。他の3人はマカオのコレジオで神学を学び、1608年、司祭に叙階されました。
✾それぞれの道
原マルチノは、ヨーロッパから持ち帰った印刷機を使って出版に携わり、教科書の翻訳や辞書の編纂に力を注ぎました。その後、マカオに追放され、病没。マカオの大聖堂の地下墓室に、ヴァリニャーノ神父とともに葬られています。
伊東マンショはイエズス会司祭として小倉に赴任しますが、土地の大名・細川忠興によって追放され、1612年に長崎のコレジオにて43歳で病死しました。
殉教者・中浦ジュリアンの2007年の列福は記憶に新しいと思います。ジュリアンは潜伏時代、「ゆるしの秘蹟」を授けるため隠れキリシタンの集落を訪ね歩きます。ローマから送られたメダイなどを配り、きびしい信仰生活を支え、励ましました。ジュリアンはメダイの礼状に、「決して終わらない迫害の中、4000人もの世話をする力はあります。信仰心を呼び起こす品を信者に分け与えると、棄教した者も信仰心を取り戻しました」と、ローマに書き送っています。しかし、ついに捕えられたジュリアンは、逆さ吊りの拷問で棄教を迫られ、5日間の苦しみの果てに、「われこそはローマを見た中浦ジュリアン司祭である」といって息絶えました。
✾ミゲルは棄教したか
千々石ミゲルはイエズスを退会して、名前も千々石清左衛門と改め、棄教したと言われていました。しかし2003年になって、ミゲルの墓がキリシタン墓地で発見され、中からロザリオの玉が発掘されたのです。彼は信仰を続けていたのでしょうか。ミゲルは12歳のころ、キリシタンや宣教師たちが寺社を襲うのを見ています。仏教徒がほら穴に隠した仏像を見つけて破壊したり、キリシタン仲間の子どもたちもそれに唾を吐いたりするのを目撃し、心を痛めたといわれています。当時のカトリックは、アジアや日本の文化を尊重する精神を欠いていたようで、それに疑問を抱いたのなら、彼なりに信仰の本質を真面目に追求していたのかもしれません。
また、他にもセミナリオやコレジオで学んだ多くの若者がキリスト教を棄てています。宣教師は、彼らは語学や学問は勝れているが、神への理解が不十分だったと言っています。千々石ミゲルがイエズス会を去った後に会った宣教師も「彼は神を信じていない」と言っています。
コレジオを去った後、大村家に仕えたミゲルは、キリスト教を「国を奪う謀(はかりごと)ばかりする」「邪教なり」と書き残していますが、それは踏み絵に代わる、役人に対するポーズだったのかもしれません。墓からロザリオの玉が出たということは、棄教を装いながら、祈り続け、心にゆるぎない信仰が根付いていたとも想像できます。
戦国時代は「キリシタンの世紀」と呼ばれています。死と隣り合わせの生活の中で、せめて未来は救われたいという思いから、多くの人が入信しました。戦が絶えず、疫病や飢餓が蔓延する中で、「ドチリナ・キリシタン(カトリックの教理書)」には、来世で助かる道について書かれていたのですから、キリスト教が爆発的に広がるのは必然だったのです。
キリシタンは天国に行くために罪を告白しなければなりません。赦しのことばを与える権限をもつ、きわめて少数の司祭を、おびただしい数のキリシタンが潜伏しながらひっそりと待ちわびている時代でした。
千々石ミゲルもかくれキリシタンとして、どこかのキリシタン集落を訪ね、皆と一緒に密かに祈った日もあったのかもしれません。しかしミゲルに関する資料はなく、潜伏キリシタンにも日誌や名簿がありません。千々石ミゲルが棄教していなかったかどうかは、神のみぞ知るということでしょう。