カトリック平塚教会報 第114号 2019年4月21日発行
平塚教会主任司祭 トーマス・テハン
- 毎年、私たちは、典礼の暦にしたがって四旬節を迎え、聖週間は、聖木曜日、聖金曜日、復活徹夜祭と続きます。毎年、四旬節の最初の日曜日には、藤沢教会で梅村司教様司式で行われる教区の志願式へと、洗礼志願者を送り出します。志願者は、洗礼への準備として塗油を受け、洗礼志願者として受け入れられ、その後、各教会で受洗します。四旬節の間、洗礼志願者とともに、聖書を通して神の御言葉に耳を傾け、導いていただくことは、イースターに向けた準備として最もよいものと考えます。藤沢教会の志願式では、繰り返し響く聖歌に大きな意味があります。聖歌では、「あなたが私を選んだのではなく、私があなたを選んだのだ」と歌われています。
父なる神が、父と子と聖霊によって私たちを導いてくださるということには、実際にどのような意味があるのでしょうか。神は私たち一人ひとりを心にとめてくださり、私たちが生まれた時からこの世にある、父と子と聖霊の、愛に満ちた関係性の中に私たちを包んでくださるのです。それは、決して終わることがなく、私たちがこの世に存在する限り続くものです。親と子の間の愛とは異なり、神の愛は限りがありません。親は良い子であることを期待し、良い子でいることが愛される条件であると、子どもたちは早いうちから学びます。親の愛を経験することがないと、気持ちが沈み、自分が悪い子どもであると感じてしまいます。子どもは親を怒らせないよう努力し、自分を罰する必要があると考え、自分自身を責めるのです。これが、私たちが神の言葉に耳を傾け、導いていただく必要があるひとつの理由です。
聖書を読むと、神が懲らしめたり、批判したりする印象が残ることがあるのも確かです。それに対し私たちは、イエスに焦点をあて、イエスと父である神の関わり方に着目し続ける必要があります。
私たちは道に迷い、自分自身の殻の中に入り込んでしまうことがあります。しかし、神は忍耐強く、哀れみ深いものです。神が選んだ人々の不誠実さを感じたら、その時は真実に立ち返り、神と神がつくられたものとの愛に満ちた関係性に戻る必要性を再認識すべきです。
イエスの道は、愛によって続く十字架への道です。私たちはイエスに焦点をあて、イエスとのつながりの中で、父と子と聖霊との関係を築いていくのです。神は私たちを愛しており、私たちに強いることはできませんし、そのようなことはしません。神は常に誠実で、私たちが自分自身の闇の中に神を招き入れ、癒しと許しの光を受け入れる用意さえあれば、常に与えてくださいます。
四旬節の間、洗礼志願者は悪を退けるための祈りを3回行います。イエスの受難は、イエスが園の中で受けたこの上ないほどの苦痛など、エルサレムでのイエスの最後の日々を思い浮かべさせてくれます。イエスは人間性と神性の両方によって、愛をこめて十字架を受け止めようという結論に達するのです。十字架は背負わなければならなかったものではなく、私たちへの愛から、私たちのために、イエスが自ら進んで苦痛と死を選んだ結果だということを理解する鍵がここにあります。十字架の苦難は現代でも世界中で続いており、罪もない人々が戦争や移住や不正取引などによって苦しめられています。
人生は、愛と思いやりの中で続けられるべきものです。洗礼の中で、私たちは死に、私たちを通して神の愛と慈しみを皆に伝えながら新たに生きることを神は願っています。
イースターの喜びが皆さんのものとなり、皆さんが出会う方々のうちにありますように。