特集2 祝、司祭2名叙階
横浜教区では、今年も2名の司祭が誕生しました。3月20日に叙階されたルドヴィコ茨木 西村英樹神父様(山手教会 助任司祭)と、4月29日に叙階されたルカ 上杉優太神父様(雪ノ下教会 助任司祭)です。皆さまのお祈りの賜物と、共に喜びたいと思います。
横浜教区では、ここ12年で10名の司祭の叙階の恵みがありました。10名の司祭のお名前は、下の表のとおりです。この人数は、他教区に比べれば恵まれておりますが、さらなる司祭叙階に向けて、皆さまのご協力とお祈りを、引き続きよろしくお願いします。
●司祭職とは何か
一粒会では、会員の皆さまと、いつも司祭の召し出しと成聖のために祈っています。しかし、司祭職とは何かについて、もう少し理解を深めて祈ることも大切かと思います。遡って2009年から1年間は「司祭年」でしたが、その開催を告示する手紙を、当時の教皇ベネディクト十六世が発しておられます。次ページ以降に、その抜粋を掲載しますので、司祭職について考える一助にしていただければと思います。 (平塚教会一粒会委員)
イエスのみ心の祭日に――この日は恒例に従い司祭の聖化のためにささげられます――、全世界の主任司祭の守護聖人であるヨハネ・マリア・ビアンネ(Jean-Marie Vianney 1786-1859年)の没後150周年を記念して「司祭年」を開催することを決めました。「司祭年」は全司祭が心の刷新への努力を深めることを目的としています。それは、現代世界にあってより力強く、はっきりと福音をあかしすることができるようになるためです。
聖なるアルスの主任司祭(ビアンネ)がしばしば述べたように、「司祭職とはイエスのみ心の愛です」。この感動的なことばによって、わたしたちはまず、深い感謝をもって、司祭が教会のためだけでなく、人類そのもののために示す大きなたまもののことを思います。わたしはすべての司祭に思いを致します。彼らは日々、信者と全世界にキリストのことばとわざを静かに示します。自分の思いと心、感情と生活様式において主と一致しようと努めます。これらの司祭の使徒としての労苦、うむことのない隠れた奉仕、全世界に対する愛のわざに感謝せずにいられるでしょうか。そして、多くの司祭の勇気ある忠実をたたえずにいられるでしょうか。彼らは困難と無理解の中でも、「キリストの友」となるという召命に忠実にとどまります。キリストが彼らの名を呼び、選び、遣わしたからです。
アルスの主任司祭はとても謙遜な人でしたが、司祭である自分が自分の民にとって大きなたまものであることを自覚していました。「よい牧者、すなわち神のみ心に従う牧者は、いつくしみ深い主が小教区に与える最大の宝であり、神のいつくしみのもっとも貴いたまもののひとつです」。彼は、司祭職とは、いわば人間にゆだねられた、はかりしれない偉大な「たまもの」であり「使命」であると述べます。
小教区の信者に秘跡の大切さを説明するために、ビアンネはいいます。「叙階の秘跡がなければ、わたしたちには主がいなくなります。主を聖櫃に収めるのはだれでしょうか。司祭です。生涯の初めにあなたの霊魂を迎え入れてくれるのはだれでしょうか。司祭です。あなたの霊魂に糧を与え、旅路を歩む力を与えてくれるのはだれでしょうか。司祭です。神の前に立ち、イエス・キリストの血によって最後の洗礼を受ける準備をしてくれるのはだれでしょうか。司祭です。いつも司祭です。そして、霊魂が(罪のために)死んだとき、彼を立ち上がらせ、平安を取り戻させてくれるのはだれでしょうか。それも司祭です。・・・・神のほかには、司祭がすべてです。・・・・司祭は天において初めて自分がいかなる者かを知るのです」
「・・・・司祭がいなければ、主の受難と復活は何の役にも立ちません。・・・・地上であがないのわざを続けるのは司祭です。・・・・だれも扉を開く人がいなければ、家が金塊で満たされていても何の役に立つでしょうか。司祭は天の宝を開く鍵をもっています。扉を開くのは司祭です。司祭はいつくしみ深い神の執事であり、神の善の管理人です。・・・・司祭なしに小教区を20年間放置するなら、人々は獣を礼拝することになるでしょう。・・・・司祭は自分のためにいるのではなく、あなたがたのためにいるのです」
ビアンネの模範によって、わたしは、信徒が完全な意味で協力できる空間を作るべきことを思い起こします。司祭は信徒とともに、ひとつの祭司の民をつくるのです。また司祭がその奉仕職によって信徒の中に置かれているのは「すべての人を『兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思う』(ローマ12・10)愛の一致に導くため」です。このことに関連して、第二バチカン公会議の司祭への強い励ましを思い起こさなければなりません。「司祭は信徒の品位と教会の使命における固有の役割とを誠実に認め、また推進しなければならない。・・・・進んで信徒の意見を聞き、彼らの要望を兄弟の心をもって考慮し、人間活動の種々の領域における彼らの経験と能力とを認めて、彼らとともに時のしるしを発見するように努めるべきである」。
アルスの主任司祭の困難な時代と同じように、現代世界においても、司祭の生活と活動は「福音の力強いあかし」を特徴とするものでなければなりません。パウロ六世がいみじくも述べたとおり、「わたしたちの時代の人間は、教師よりもあかしする人に喜んで聞きます。それどころか、もし教師にその耳を向けるとしたら、彼らがあかしをする人だからなのです」。生きる空しさを感じたり、奉仕職の効果が落ちるようなことを避けるために、わたしたちはいつも自らに問いかけなければなりません。「わたしたちは真の意味で神のことばによって満たされているでしょうか。神のことばは本当に、パンやこの世のもの以上に、わたしたちの生きる糧となっているでしょうか。わたしたちは本当に神のことばを知っているでしょうか。神のことばを愛しているでしょうか。神のことばが実際にわたしたちの生活に刻印を押し、わたしたちの思いを形づくるほどに、神のことばに深く心を向けているでしょうか」。イエスは十二人を呼んで自分のそばに置き(マルコ3・14参照)、その後初めて彼らを宣教に遣わしました。それと同じように、現代の司祭も、主イエスが開始し、使徒たちが自分のものとした「新しい生活様式」を身につけなければなりません
「わたしたちの主に仕えるよい方法に二通りのものはありません。あるのはひとつだけです。それは、主が仕えてほしいと望むとおりに仕えることです」。「いつくしみ深い神にささげることができることだけを行うこと」。これが、ビアンネにとっての従順の生活の黄金律だったと思われます。親愛なる司祭の皆様。聖ヨハネ・マリア・ビアンネの没後(1859年)150周年の記念は、ルルドのマリアのご出現(1858年)150周年の直後に行われます。
聖なる主任司祭ビアンネはいつも信者たちに繰り返していっていました。「イエス・キリストは、与えることのできるすべてのものをわたしたちにお与えになった後、ご自分のもっているもっとも貴いものをわたしたちにさらに受け継がせることを望みます。すなわち、聖マリアです」。
わたしは聖なるおとめにこの「司祭年」をゆだねます。
バチカンにて、2009年6月16日
教皇ベネディクト十六世
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