カトリック平塚教会 献堂式
はじめに
カトリック平塚教会の建設委員会は、多くの方々のご協力により3年間の役目を終えることができた。すべてのメンバーにとって初めてだった聖堂建設という仕事は、新しい経験の連続だった。振り返ってみると、初めから先の展開が読めていれば、もっとうまくできたと思えることも多い。
そこで、これから聖堂の建設に携わる方々のために、経験したことを時系列にまとめてみることにする。教会毎に個々の事情があり、参考になる部分は少ないかもしれないが、ひとつの具体例としてお読みいただき、他山の石としていただければ幸いである。
なおこの記録は、建設副委員長を務めさせていただいた私個人の視点からまとめたものであり、異なる立場から見れば、また別の記録があり得るということをお断りしておく。
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建設への道
カトリック平塚教会は、1953年9月、平塚市夕陽ヶ丘4-31に建設された。当時としても決して豊かではなかった、アイルランドの信徒たちの寄付により建てられたと伝えられている。
1972年、外国からの寄付に頼るのではなく、将来自分たちの手で教会を建て直そうという呼びかけが、教会内から起こり、「聖堂建設資金」の積立がスタートした。以後30年にわたって、この積立は続けられ、今回の建設の貴重な原資となった。
1999年には「教会建設準備委員会」が設置され、平塚教会の建物の現状や耐震性を調査。近年聖堂を建設した近隣教会の調査も行った。また、教会建設に関する信徒の意識を調査するアンケートも実施された。
その結果を踏まえ、2000年7月、建設準備委員会から教会委員会に対し、建設の必要性が具申された。その理由は、① 各建物は竣工後50年近くを経過して老朽化していること、② 専門家の診断によると各建物の耐震性が不足していること、③ 聖堂の収容人員が不足していること、④ 土曜学校の教室やヨゼフ会のプレハブ建物は老朽化が激しく、無届の建物であることから法的にも問題があること。
建設の機は熟したかに見えたが、具体化へ向けて一歩を踏み出すことに皆が躊躇していた中にあって、当時の教会委員長 二・・が2001年11月に信徒総会を招集した。その席で教会委員会から聖堂の建て替えが提案された。信徒総会での確認事項は以下の3点。① 信徒総会参会者全員一致で 「建設に向けて動き出す」意志を確認。② 建設委員会を発足させることを決議。③ 建設に関する最終決定は「建設委員会」で行うことを確認。
その後、横浜教区建設委員会に対し、聖堂・司祭館・信徒会館の建て替えが具申され、同年12月6日の教区建設委員会でその必要性が認められた。
それと平行して、教会委員会、建設準備委員会、ヨゼフ会、婦人部の代表からなる建設委員選考委員会と主任司祭の合議によって、信徒の中から19人の建設委員が選任された。委員選任に当たっての二・・委員長のリーダーシップと、建設委員会の枠組み作りには目覚しいものがあった。
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基礎固め 2002年2月~8月
建設委員会には、委員長1名、副委員長1名を置き、「渉外担当」「資金管理」「設計・施工管理」の3つの小委員会が設置された。委員長・副委員長以外は、全委員が3つの小委員会に所属し、その中から、3人の小委員長が選ばれた。
各小委員会の業務は以下の通り。
渉外担当小委員会・教区建設委員会(横浜司教区内に設置)との折衝
- 一般信徒との調整並びに委員会の広報
- 工事業者との契約業務等対外的な折衝
- その他委員会の庶務的事項
資金管理小委員会・資金計画の策定(寄付のお願いを含む)
- 献金、寄付金の財務処理
- 借入金の管理
- その他建設に関わる出納業務
設計・施工管理小委員会・新施設の立案
- 建設会社の選定等建設に関する技術的折衝業務
- 建物建設に伴う手続き、申請業務
- 施工事の管理業務
- その他工事に関する業務
また、平塚教会建設委員会は、横浜教区建設委員会から派遣される委員(2名)を交えて、3~4ヵ月毎に、「拡大委員会」を開催する事になった。拡大委員会は、教会建設の指針を確立するために教区委員会の指導・協力を得るとともに、他小教区との調整を図るために開催されることになった。拡大委員会の設置は、教区建設委員会の指導によるものである。
かくして、2002年2月17日、第1回建設委員会が開催された。二・・教会委員長から建設委員会設置に至るまでの経過が報告され、出席委員全員が建設に賛同した。次に、主任司祭によって委員長には古・・、副委員長には細・・が指名され、両名とも快諾した。さらに、3つの小委員会への各委員の振り分けと、小委員長の人選案が二・・教会委員長から私案として提案され、次回委員会までに検討することとなった。
ここで、建設委員会の人数について私見を述べておきたい。平塚教会の建設委員会は総勢19人だったが、この数は多すぎるという印象を持った。正副委員長と3つの小委員会という構成は妥当だったと思うが、各小委員会の人数は3人から4人でよかったのではないか。複雑なテーマをじっくり話し合う小委員会の人数としては、5人以上では多すぎると思うし、全員を集めるためのスケジュール調整も、人数が増えるほど難しくなる。したがって委員会の総勢は、11~14人が妥当だと私は考えている。
3月10日に開催された第2回建設委員会は、教区建設委員会委員長のカンペンハウド神父様を招いて開催された。神父様からは、拡大委員会を開く意味と、建設に関して司教様にどのタイミングで答申すべきかについて説明があった。
その後、古・・建設委員長から建設委員会の活動方針案と審議日程案が発表された。概要は以下の通り。
② 資金計画は、2002年6月までに大要を、12月末までに成案を決定する。
③ 建設委員会は毎月第2日曜日のミサ後開催し、3~4ヵ月毎に拡大委員会として開催 する。
④ 建設委員会会報を2ヵ月毎に発行する。(実際には3ヵ月毎の発行)
次に、3つの小委員会のメンバーが決定され、渉外担当小委員長に二・・、資金管理小委員長に鈴・・、設計・施工管理小委員長に桐・・が選ばれた。
また、資金計画や建て替えの規模を考える前に、どのような教会を建てるのかというビジョンを話し合うべきではないかという意見が出され、次回委員会に正・副委員長によるビジョンのたたき台を提出することになった。
第3回建設委員会は4月7日に開催された。設計・施工小委員会からは建設費算定のための基本プランが提出された。それによると、聖堂・司祭館・信徒会館一体型の3階建て(実際には別棟の2階建て)で、総床面積960㎡(同797㎡)、総予算2億2,400万円(同2億6,500万円)。現在の聖堂をそのまま使いながら駐車場スペースに建設する2タイプの敷地計画図も提出された。このように素早くたたき台が作成できたのは、建設準備委員会のこれまでの活動の蓄積の賜物であり、建設準備委員長からそのまま設計・施工小委員長に就任した桐・・の豊富な実務経験による所が多い。
また、正副委員長からは、教会建設のビジョンのたたき台である “どんな教会を建てるのか?” が提出され、建設委員会案として了承された。内容は以下の通り。
どんな教会を建てるのか? 「開かれた教会」を建てよう!
1.多様な人々に開かれた教会
- 赤ちゃんからお年寄りまで参加しやすい教会(泣き部屋、土曜学校などの部屋)
- 体の不自由な人が参加しやすい教会(体の不自由な人に配慮した設計)
- 外国籍の人々が参加しやすい教会(外国籍コミュニティーの意見の反映)
2.地域に開かれた教会
- 近隣住民に親しまれる教会(街の目印として親しまれる教会)
- 地域コミュニティーに親しまれる教会(地域の交流のセンターとして)
- 近隣教会と交流できる教会(近隣教会との交流の場として)
3.未来に開かれた教会
- 新しい教会のあり方を反映した教会(奉仕者による教会運営に配慮)
- 未来の構成メンバーに使いやすい教会(信者数の増加や司祭の老後に配慮)
- 50年後も充分に使用に耐える教会(できるだけ長く使用できる設計)
第4回の建設委員会は拡大委員会として5月18日に開催された。資金管理小委員会から建設資金の現状について報告があった。それによると、2003年末の手持ち資金は9,417万円となる見込み。
全信徒数622人のうち、維持費納入者157人、聖堂建設費納入者123人。建設予定金額を2億2,400万円とした場合、向こう10年間の信徒負担額は、年1,034万円とのことだった。また、教区建設委員会のカンペンハウド神父様と、山手教会の佐藤志行氏から、他教会での聖堂建設の経験談をうかがい大いに参考になった。
また、4月末から5月中旬にかけて、信徒全員を対象にアンケート調査を行った。アンケートの内容は、① 教会維持費と聖堂建設資金に対する態度、② 教会はどんな所か、集まるのは何故か、③ 教会の使命を担うのは誰で、どうしたらその手伝いができるか、④ 教会建設にあたって配慮すべきこと。
174通のアンケート用紙を配布して、集まった回答は41通(23%)だった。回収率から見ると、聖堂建設への意識はまだ盛り上がっていないように見えるが、平塚教会で過去に行ったアンケートも概ね同程度の回収率だったように思う。聖堂建設に対する反対意見はほとんど見られず、「簡素で落ち着いた感じの教会に」「聖堂の大きさは充分に」というあたりが、多くの信徒に共有されている考え方だった。一方で、「早く作れ」と「じっくり時間をかけて」、「横長で祭壇を囲む聖堂」と「従来どおりの長方形で」、「冷暖房完備」と「冷房はいらない」など、正反対の意見も多く出され、今後の調整が思いやられた。
一方で、設計・施工管理小委員会は、新しい教会に必要な部屋の数、広さ、使用内容などについて、教会内の各グループを対象にアンケート調査をスタートした。
6月2日には、建設委員会ニュースの第1号が発行された。タイトルは「みんなで教会を建てよう!-建設委員会ニュース」。当面3ヵ月に一度の間隔で、A4横、両面印刷、ホッチキス2箇所留め。この仕様は、号によって情報が増減しても対応できるように考えて決めた(少ない時は3頁、多い時は20頁だった)。発行部数は350部(全信徒世帯数+α)、教会の印刷機を使って印刷する。表紙の右上にパソコンで出力した宛名ラベルを貼って、ミサ後に各家庭1部ずつ持ち帰ってもらう。また、教会に来られない人には近所の人ができるだけ届けてくれるようにお願いし、1ヵ月経っても残ったものだけを、郵送することにした。
表紙の左半分には、土曜学校の小学生たちに「こんな教会がいいな!」というテーマで絵を描いてもらったものを、新聖堂のラフスケッチができるまで毎号掲載した。高齢の読者が多いことに配慮して、文字の大きさはすべて12級以上とし、専門的用語は極力使わないようにした。このニュースは、建設に向けての課題や、進捗状況を全信徒に到達させる唯一のメディアとして聖堂完成まで機能することになる。
この時期は、とにかく信徒の意見を聞こうということで、7月21日には、第1回の「聖堂建設の公聴会」を開催した。参加者は61名。冒頭、古・・建設委員長から、① 聖堂・司祭館・信徒会館の全ての建て替えを目指すこと、② 予算は概算で2億2,000万円(備品含む)であること、③ 聖堂建設のビジョン、について説明し、その後、先に実施した信徒へのアンケート結果に沿って質疑応答を行った。各項目について2~3件ずつの質問や意見があったが、資金集めに関して、初めて建設委員長の口から「一家庭あたり60万円」という目安を発表すると、「それでは高すぎる。現在手持ちの資金が8,000万円あるなら、それだけでどんな建物を建てられるかを考えるべきだ」という強い意見が出された。しかし、それに追随する意見はなく、むしろ反対意見が出て、建設委員会の原案は否決される事なく閉会した。
アンケートの結果と公聴会の議事録は、建設委員会ニュース第2号に、9ページにわたって掲載され、全信徒にフィードバックされた。また、この号で、信徒に対して設計者の推薦の募集を開始した。
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献金開始へ向けて 2002年9月~12月
9月1日には、全信徒を対象に「建設献金に関するアンケート」を配布した。資金計画を立てるためには、平塚教会にどれくらいの負担能力があるかを把握しておかなければならないからだ。アンケートでは、まず以下の点について確認した。建設委員会が現在考えている負担額の目安は世帯平均60万円(10年間分割だと月5000円)だということ。ただ、これはあくまで目安であって、各人の都合に合わせて金額の増減をしてほしいこと。聖堂建設費を増額する代わりに、教会の維持費を減らさないでほしいこと。その上で、① 建設資金負担の意思の有無、② 世帯全体での負担総額、③ 負担方法(一括か分割か)、を記名で尋ねた。
この時期、建設委員会以外からも、聖堂建設に向かっての自主的な活動が起こり始めた。7月からは婦人部が、月1回日曜日のミサ後にコーヒー等の販売を行って、収益金の全額を建設資金に寄付してくれていた。9月15日には、フィリピンのコミュニティーが、聖堂建設のためのチャリティービンゴ大会を開いてくれて、収益金50万円を寄付してくれた。これまでの平塚教会の資金集めの対象は、教会内とその周辺に限られていたが、フィリピンコミュニティーの方法は広域的で、ビンゴ大会当日は遠方からたくさんのフィリピン人と、関わりのある日本人が平塚教会へつめかけてくれた。また、10月にはヨゼフ会が芋煮会を開催し、同じく収益金を寄付してくれた。クリスマスには南米のコミュニティーから、まとまった献金をいただいた。
この年の9月から12月は、資金計画の目処をつけることに、建設委員会全体が集中して取り組んだ。9月の拡大委員会で、教区から約7,000万円(実際には8,000万円)の借り入れが可能なこと、教会債の発行や預託金の募集は許可されないことがはっきりしたため、建設工事終了時までに支払額を調達することが、新たな課題として浮上してきた。
建設資金に関するアンケートには、144世帯(全世帯数の約43%)から回答があり、1世帯平均の献金総額は約53万円という数字が得られた。アンケートの数字を合計すると、教区への返済利子を加えた目標額の92%の目処が立ったことになり、この時点での不足額は約1900万円だった。建設委員会はこの結果に手応えを感じて、年内の「建設資金申込書」提出へ向けて動き出すことにした。
11月17日の「聖堂建設に関する第2回公聴会」は、46名の参加を得て開催された。テーマは2つ。
建設資金に関するアンケートの結果を報告し意見を聞くことと、設計と工事に関する進め方を示して意見を聞くこと。
資金に関しては、前述のアンケート結果を示して、以下の5点の計画を打診した。① この程度の不足額なら計画を進めても差し支えないのではないか。② 不足額はアンケートの回答額の約2割なので、まとめ払いの方は可能な限り2割アップ、分割払いの方は金額を変えずに支払い期間を2年延長してもらえないか。③ 建物完成時に建設費の全額を払わなければならないので、可能な方は献金をできるだけ前倒ししてほしい。④ 12月には信徒全員に「建設資金申込書」を渡したい。⑤ 平塚の 信徒だけでなく関係各方面にも協力をあおぐ予定である。
設計と工事に関する進め方については、聖堂建設の目的と理由について再度確認した後、以下の5点について計画を打診した。① 建設の時期はできるだけ早くしたいので、建設資金の目処が立った時点で設計者の選定に入る。② 今回の計画を進めるに当たって、大手建設会社OBの栗・・氏にアドバイザーをお願いしたい。③ 設計者はプロポーザル方式により選定する。プロポーザル方式とは設計候補者に技術や経験、設計に臨む体勢などを含めたプロポーザル(提案書)を提出してもらい、最も適した人を選ぶ方式。④ 設計図は、教会側と設計者の協議を経て、設計者が作成する。⑤ 施工業者は、設計図に基づき入札を行って選定する。
この説明に対し主に以下のような質問や意見が出された。アンケートに回答していない信徒への対処方法についての質問。借金に寄りかかった構想には問題があるので、資金が足りないならまず聖堂だけ建てればいいではないかという意見。今の教会の外観に魅力を感じているという意見。
公聴会でアドバイザーとして名前の挙がった、栗・・氏について触れておきたい。栗・・氏は、設計・施工小委員長の桐・・と仕事上の接点があり、桐・・小委員長から今回の計画を円滑に進めるためにぜひ力を借りたいと建設委員会に推薦があった。協力を打診した後から、奥さんと息子さんが平塚教会の信徒であることがわかった。長年、大手建設会社に勤めた後、地元平塚で建設事務所を開いており、設計者や建設会社の選定には豊富な経験を持っている。このような方にアドバイザーとして並走していただいたことが、建設委員会にどれだけ力になったか知れない。
公聴会の雰囲気からも、計画が大筋では支持されていると判断した建設委員会は、12月に入ると「『建設資金申込書』提出のお願い」という文書を全信徒に送付した。公聴会で表明したとおりアンケートでの金額から、可能であれば2割の増額をお願いし、正式な申込書の返送をお願いした。締切日を12月末とし、1月からの献金方法も示した。
申込書は、120通まではすんなりと返ってきたが、その後返信のない信徒への問い合わせで、資金管理小委員会のメンバーは長期間苦労することになる。
また、この時期、反論とも自己主張ともつかない多くの意見が個人的に寄せられた。聖堂入口に設置されていた目安箱などに、署名入りで述べられる意見ならば、いちいち反論なり意見なりを返せるのだが、自宅への長電話や無署名の手紙が、特に建設委員長と資金管理小委員長に集中して、2人およびそのご家族に大きな負担を強いることになった。
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設計者の選定 2003年1月~4月
2003年1月から4月にかけては、設計者の選定に大きな労力を傾けた。前年9月から、信徒による設計者の推薦を受け付けていたが、年内にはそれも打ち切り、9社の設計会社をリストアップした。その中から、2月中旬には6社の設計会社を選定した。選定条件は以下の通り。① 平塚教会または横浜教区信徒から紹介を受けた会社、② または、今回の平塚教会の計画にアドバイスを受けた会社、③ 事務所が平塚市近辺にあること(県内または東京都内)、④ 教会施設設計の実績があり評価を受けていること、⑤ 設計専門会社であること(設計施工会社だと、施工会社選定時に支障をきたすので)。
同時平行して、プロポーザル依頼の文案作りを行った。プロポーザル依頼書、建築計画概要、敷>地概要、プロポーザル選定基準、プロポーザル作成要領、その他特記事項など多くの書類について栗・・氏・桐・・小委員長の専門家2人の力を借りながら文案を詰めていった。この時期、設計・施工管理小委員会はメンバーを絞って毎週開催された。
2月16日の建設委員会でプロポーザルの文案を報告し、22日の拡大委員会で教区建設委員のチェックを受け、24日には設計会社6社への参加確認書を送付し、いよいよプロポーザル依頼書に司教様の印をいただこうというところで、難問に直面した。教区関係者から「平塚教会の敷地の一部(約半分?)を売却して、将来、新たな宣教拠点を設ける一助とすることを合わせて、この建設について検討している」「重要な事項について結論が出ていない段階でこのように(プロポーザルを)進めてしまうことに、重大な懸念を持つ」というメールをいただいたのだ。
たしかに22日の拡大委員会でカンペンハウド神父様より、同様の売却話は聞いていたが、プロポーザルの内容については了解が得られたという感触を持っていた。その後、古・・委員長と教区および教区建設委員の間で頻繁にメールが交わされ、誤解の部分は解消した。結局、教区建設委員会からは、① 新しい宣教の拠点のためには、広い敷地のある小教区の敷地の一部の売却を考えざるを得ない、② 教区は600坪あれば小教区の活動ができると考えている、③ 何かの理由で600坪で足りなければ、その旨教区建設委員会に説明すること、という文書が届いて、プロポーザルは予定通り進めていいことになった。
3月9日には、聖堂建設に関する第1回の信徒集会が開催された。建設委員会がこれまで審議してきた事を信徒に説明し、プロポーザルの依頼を行うことをについて正式に承認を得るための信徒集会だったが、教区からもたらされた土地売却話に質問が集中し、少しでも売却面積を減らすよう建設委員会の奮起を促す意見が多く出された。建設の方向性とプロポーザルの依頼については、拍手により承認された。
この承認を受けて、3月10日にプロポーザルの依頼文書を6社の設計会社に送付した。提出を求めたのは、① 会社の概要と業務実績、② 教会建築設計の実績、③ 有資格者の一覧表、④ 当該業務の担当者及び組織表、⑤ 設計業務の概略工程表、⑥ 設計及び監理費用の概算見積書、⑦ その他特記事項として、予算規模・聖堂設計・福祉・環境などについての考え方、である。また、提案は基本的考え方を文書で簡潔に記述し、文章を補完するための最低限の図版は使用してよいが、設計の内容を具体的に表現した図版類は不可とするという条件をつけた。
3月22日には、6社からのプロポーザルが出揃った。あらかじめ用意しておいた採点表を用いて8人の審査員による投票が行われ、合計得点上位3社を教会に招いて質疑応答を行った。次に、質疑応答の内容をうけて最終投票を行い、最高得票を獲得した「高垣建築総合計画」を、建設委員会として教区に推薦することに決定した。
その後、教区建設委員会と司教顧問会議を経て、4月28日に高垣建築総合計画との契約締結が承認された。承認に当たって司教館からは、① これからの第六地区(神奈川県の茅ヶ崎以西の9教会)における平塚教会のあり方を検討・報告すること、② 将来、敷地の一部売却が可能な配置計画とすることが、「お願い」という形で付記された。ただし、教区としては現時点で具体的な売却計画はなく、また平塚教会だけがその対象ではないことも確認していただいた。
この「お願い」に対して建設委員会では、もし仮に教区が平塚教会の敷地を活用する必要が生じた場合、敷地面積全体の3分の1を活用できるように配慮しながら、新しい教会の土地利用計画を進>めていくという意思表示をした。ただし、まとまった形の良い土地は教区にとっても財産であり、できるだけ売却しない方法で活用してほしい。そのために、フィリピンと南米のコミュニティーを含めた、これからの平塚教会の活動を充分見極めた上で、土地利用計画を立ててほしいと働きかけた。
また、承認の際に司教様からいただいた書簡にあった、「第六地区における平塚教会のあり方を考えること」が、その後の計画推進おいて大きなテーマとなった。たとえば、フィリピンのコミュニティーがバザーに合わせて行う聖堂建設チャリティービンゴのチケットを、6地区の主要教会に販売しに行ったことなどが、その現れである。建設委員が2人一組になって近隣の5教会を訪れ、平塚での建設計画を説明しつつビンゴ券を販売するという試みだ。各教会での反応はよく、5教会でビンゴ券267枚、133,500円の売上げがあった。建設計画の説明にも熱心に耳を傾けてくれた。
ビンゴの収益金は30万円建設資金に寄付された。フィリピンのコミュニティーは、翌年2月のチャリティーコンサートや、8月のビンゴなど、多国籍のコミュニティーが協力し合う、新しい教会作りの気運を盛り上げてくれた。
プロポーザル方式 建築物の設計者を選定する際に、複数の者に目的物に対する企画を提案してもらい、その中から優れた提案を行った者を選定すること。
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基本設計 2003年5月~12月
設計者の高垣建次郎氏とは、5月11日に設計依頼後初めての打ち合わせをした。建設委員会からは、① 一見して教会と分かるようなデザイン、② 将来を見越したゆとりのある設計、③ ランニングコストを考えた省エネ設計、④ 福祉対策やシックハウス対策、などを強調しながら、聖堂・司祭館・信徒会館それぞれに、どのような用途のスペースがどの程度の広さで欲しいのかを提示した。
それに対し高垣氏からは、① 松の木に囲まれた旧聖堂と同じ場所に新聖堂を建てたい、② かなり厳しい予算なので聖堂・司祭館・信徒会館はそれぞれ異なった仕上げにせざるを得ない、③ その上で聖堂は少なくとも100年は保つ鉄筋コンクリート建築にしたい、④ デザイン的にも飽きが来ず、旧聖堂の良さが引き継がれたと評価されるような聖堂を設計したい、という意見が述べられた。高垣氏と相談の上、10月5日の教会献堂50周年記念式典までに具体的な設計案を信徒に提示することを目標に、設計業務がスタートした。
7月12日には、高垣氏からの提案もあり、高垣氏が設計した代表的な建築物の見学会を教会内で公募して実施した。マイクロバスをチャーターして、19人の信徒が長野県富士見町のベネディクト修道院と東京の大神学院を見学した。どちらもすばらしい建物で、特に壁面等の仕上げの美しさが印象的だった。ただ、この2つの建物は坪単価100万円近くかかっており、これから平塚教会が依頼するのは坪60万円であるというところが、不安の種だった。
高垣氏との打ち合わせを詰めていく過程で、段階的に決めていかなければならないポイントが見えてきた。まずは、敷地利用計画。教区に対し、敷地全体の3分の1までは活用可能な計画を作ると約束していることもあり、まずは、南北に細長い敷地の南側に建てるか北側に建てるかを決めなければ設計が先に進まない。7月20日には、南側・北側それぞれに建物を建設した時のメリット・デメリットをまとめた資料を信徒に配布し、それに対する質問や意見を受け付けるミニ集会を毎週開いて、8月3日の「基本設計についての信徒集会」に臨んだ。
信徒集会では、敷地の南側・北側問題を改めて説明するとともに、建設委員会として北側に建設することを提案した。信徒からは北側・南側両方を支持する意見が出されたが、最後に改めて建設委員会が北側を支持する理由を述べて、拍手多数により賛同を得た。同時に、工事期間中は旧信徒会館でミサを行う(大祝日を除く)ことにも賛同を得た。この賛同を受けて、聖堂・司祭館・信徒会館の3建物の配置案も2案提示し、信徒の間で討議してもらうよう依頼した。また、この機会に高垣氏から設計の基本的考え方を信徒に説明してもらった。信徒集会への参加者は80名だった。
8月13日には教区建設委員会に、高・・氏、古・・委員長、桐・・小委員長が出席して、建設の進捗状況を説明した。会議では教区建設委員から、① 聖堂と信徒会館をつないで大祝日には300人以上が入れる大聖堂は作れないか、② ミサ後に信徒が会館に立ち寄りやすくする工夫を、③ 教区内の事情に鑑み修理して使える建物はできるだけ使うようになど、様々な意見や提案があった。
この間、建設委員会と設計者の間では、何度も設計に関する意見交換が行われ、9月21日発行の「建設委員会ニュース」第6号で、初めて設計原案が発表された。当初、建設委員会としては、2つの案を作成して信徒から意見を吸い上げる考えだったが、設計者はベストの1案以外を提示することに反対だった。じっくり話し合って、何度でも修正を加えながら、建設委員会と設計者が自信を持って提案できるベストの1案を提示したいとの設計者の意思が強く、建設委員会もそれを受け入れることになった。
この設計原案に関する説明と信徒の意見収集に全力を挙げつつ、10月5日の50周年記念式典には50分の1の「平面模型」(発泡スチロール製)を設計事務所に作成してもらって展示した。50周年を期に、記念ミサを司式していただいた梅村司教様と、正・副建設委員長でひと時話し合う時間が持てたことは、教区の建設に関する考え方を確認する上で有意義だった。
10月19日には第3回の信徒集会を開催した。参加者は50名。まず、聖堂・司祭館・信徒会館の配置案と、なぜそのようになったかを説明し、質疑応答の後、拍手多数により承認を得た。次に、設計者に各建物の間取りについて説明していただき、質疑応答を行った。特に意見のなかった部分の間取りについては、仮に承認されたとみなして設計を進め、意見や改善の要望のあった点については検討の上、次回信徒集会で決定することとした。ここまで具体的になってくると、信徒一人ひとりに思い入れがあり、活発な質問や意見が出された。
建物の配置が承認され、間取りについても根本的反対がないことが確認されたところで、いよいよ建物の外観について議論する時期が来た。11月中旬には、高垣氏が信徒の意見を聞きながら熟慮を重ねた末の外観スケッチが、建設委員会のメンバーに提案された。それは委員会の期待通りの、すばらしいものだった。
12月7日には、70名の参加を得て「第4回信徒集会」が開催された。公開の場で設計について意見を募る最後の機会になることをあらかじめ公表しての集会だった。集会前半では、前回の信徒集会と聖堂の入口に設置した意見箱に入れられていた合計33の意見や要望に対し、委員長が詳細な回答を行った。後半では、高垣氏が100分の1の外観模型を示しながら、聖堂の外観と聖堂内のレイアウトについて説明し、質疑応答を行った。信徒の反応も概ね好意的で、その場で拍手により聖堂の外観および聖堂内の配置が承認された。さらに、今後、重要な変更がある場合には教会委員会に諮るが、詳細の決定に関しては、建設委員会に一任して欲しい旨をお願いし、拍手多数により承認された。また、この信徒集会で、工事の着工および竣工予定を当初予定より4ヵ月遅らせることと建設業者の信徒からの推薦を2004年1月中旬まで受け付けることを周知した。
この時期までの建設委員会の活動は、とにかく信徒からの意見を吸い上げる事に力を注いだ。工事が動き出してからの変更要求はコストに響いてくるし、建物全体の設計上の整合性にも影響するため、信徒の意見が基本設計段階でできるだけ出尽くしてほしかったからだ。そのために、信徒の合意を、建物の基礎を積み上げるように段階的に得ていった。① 敷地の南側に建てるか、北側に建てるか、② 3つの建物をどのように配置するか、③ 基本設計の平面図はこれでいいか、④ 外観はこれでいいか。これらの合意を得るために、3回の信徒集会を開催したが、そこに漕ぎ着けるために毎週、設計施工小委員会を開いて議論を重ね、設計チームとのやり取りをし、毎月の建設委員会に諮って委員会内の合意を得、拡大委員会を開いて教区建設委員の合意を得る必要があった。重要な決定については、その上に教区司教顧問会の承認を得る必要もあった。これだけの手続きを踏んできて初めて、信徒集会で、詳細の決定についての建設委員会への一任を取り付けたのである。信徒と建設委員、建設委員会と教区建設委員の相互信頼が確立されてはじめて可能なことだった。
基本設計を固めることと平行して、建設委員会では秋から冬にかけて2つのテーマに取り組んでいた。
ひとつは完成後に必要な建物内の備品の洗い出し。建設委員会内で手分けして教会内の各グループからアンケートをとり、必要備品の一覧表を完成していった。ちょうどそのころ、横浜教区のカトリックセンターが取り壊されることになり、不要となった備品を譲り受けられるという情報がもたらされたため、カトリックセンターから譲り受ける備品のリストも平行して作成していった。年が明けて2月7日に、ヨゼフ会を中心にした十数人の信徒が10トントラックを借りてカトリックセンターを訪れ、大量の備品を譲り受けた。同じものを新品で買えば数百万円はするだろう量で、建設計画にとっては大変ありがたい助っ人となった。譲り受けた備品は、建設のアドバイザーをお願いしている栗・・氏が所有する平塚市内の倉庫に保管していただくことができた。
もうひとつは、近隣教会への建設献金協力依頼。教区からは、6地区全体の将来を考えた建設計画とともに、6地区の教会に対し金銭的にも援助を求めるべきだという助言を受けていた。資金管理小委員会による、平塚教会内の信徒への献金のお願いもほぼ一段落したので、近隣教会に対してどのような協力要請を行うべきか建設委員会内で議論を重ねた。その結果、茅ヶ崎、大磯、二宮、小田原、秦野の各教会へ、建設委員が手分けして2名ずつ訪問し、建設計画を説明するとともに、建設献金への協力を要請することになった。実際に訪問したのは、年が明けた2月から3月である。
6
施工会社選定から着工まで 2004年1月~6月
次の大きなステップは施工会社の選定だった。施工会社に関する信徒からの紹介・推薦は、2004年1月末に締め切った。紹介・推薦会社は計13社となった。その中から、今回の工事をお願いするにふさわしい会社を4社に絞り込んだ。絞込みの基準は、① 今回の工事を受注可能な規模の業者であること、② 聖堂建設の際に必要となる音響等の技術研究施設を備えた業者であること。この4社に対し、2月16日に、技術提案・概算見積り依頼書を提示した。依頼の趣旨は、あらかじめ1億6,000万円という工事予算を提示して、この厳しい予算の中で設計原案を実現するための技術的提案を含めた概算見積りの提出を求めたものである。3月12日には、4社から技術提案と概算見積りを受理し、技術提案、見積りともに教会の要求水準に近かった2社に絞り込んで、3月20日に平塚教会にてヒヤリングを行った。
ヒヤリングをうけて、設計者を加えた設計施工小委員会で検討した結果、平塚教会としては株式会社竹中工務店にお願いすることを決定し、第6回拡大委員会にて、教区建設委員会に推薦した。推薦理由は、① 設計原案に対する概算見積り額が最も低かったこと、② 平塚教会建設に対する意欲が最も強く感じられたこと。この推薦は教区建設委員会にも受け入れられ、4月26日に教区司教顧問会にて、平塚教会の施工会社が竹中工務店に決定した。
竹中工務店の概算見積り金額は1億6,900万円で、当初の提示額を900万円オーバーしていた。しかし、他の3社の見積りを設計原案に沿って計算し直すと、いずれも1億8,000万円を超えており、この辺りが相場と解釈せざるを得なかった。建設資材が高騰しつつある状況も考慮に入れて、詳細見積りの段階でも1億6,900万円を超えないことを条件に、竹中工務店の提示額を受け入れることにした。竹中工務店からは、その後、詳細見積りを取り、7月中旬に契約、着工となった。
施工会社が決まると、次は既存建物の解体に向けての引越し作業が待っていた。教会委員会と建設委員会のメンバーを中心に、「移動管理委員会」が発足し、委員長には建設委員の水浦鉄幸が就任した。この委員会を中心に、旧建物から倉庫への荷物の移動と、完成後の建物への荷物の移動が滞りなく行われた。
まずは、5月の連休を利用して、旧聖堂・司祭館・信徒会館の荷物の整理を行い、旧信徒会館でミサがあげられる準備を整えた。当面使わない荷物は、栗・・氏の倉庫にレンタカーのピストン輸送で移動した。そのための膨大な作業は、多くの信徒の献身的な労働奉仕によって成し遂げられた。引越しに伴って出た大量の廃棄物は、業者に処理を頼めば数十万円かかるところを、ヨゼフ会のメンバーが中心になって丁寧に分別し、自分達の手で市の破砕所に持ち込んでくれた。その後、解体業者が残していった木の切り株の処理も含めて、信徒の献身的な労働により、どれだけ多くの不測のコストアップを免れたか知れない。
引越し作業と平行して、教会の近隣への挨拶回りも行われた。竹中工務店の担当者に、建設委員会の渉外担当小委員会のメンバーが同行したが、約半数は不在で直接挨拶を交わすことはできなかった。会うことができた近隣住民からは、いくつかの質問は受けたが、とりたてて反対の声は上がらなかった。
また、工事期間中の大型工事車両の出入り口を、貸し駐車場を横断する形でしか確保できないという問題も発生した。貸し駐車場は、近くの団地の自治会が一括使用しているため、団地の自治会役員との会合を持ったが、こちらもすんなりと理解を得ることができた。近隣とのトラブルを抱えることなく工事を遂行できたことは、大変幸運だったと思う。
引越しが無事終了したところで、6月6日には旧聖堂での最後のミサが行われ、ミサ後、仮聖堂へのご聖体移動のセレモニーが行われた。50年間慣れ親しんだ聖堂と別れるのは、特に古くからの信徒にとっては感慨深いものがあったと思う。その思いに応えるためにも、信徒に愛される新聖堂を建てなければならないと、建設委員一同思いを新たにした。
7
着工から竣工まで 2004年7月~2005年2月
旧聖堂・司祭館等の解体は、6月末から7月にかけて約1週間で完了した。7月10日には、更地になった聖堂建設予定地で、主任司祭司式による「土地の祝福式」が行われた。
「土地の祝福式」終了後、「第1回建築主定例会議」が行われた。この会議は、月1回、建設委員会と設計者と工事関係者が一堂に会して、工事の進捗状況を確認するとともに様々な問題を解決していくためのものである。建設委員会からは、正・副委員長と設計施工小委員長が出席した。毎月、建設委員会の前日の土曜日に開催し、竣工直前の2005年2月まで続けられた。
着工後は、杭打ち・根切り、基礎配筋・型枠と、工事は着々と進められていった。工事の進捗に合わせて、外壁や内装の素材の選定、コンセントの位置の確認など、矢継ぎ早に決断を迫られた。10月に入って建物の全貌が見え始めた頃には、聖堂にとって最も重要な内陣の備品発注や、外構工事の発注がテーマとなってきた。
内陣の設計・施工については、設計者の紹介で二俣川教会の信徒の会・・氏に全面的にお願いした。9月の建設委員会で正式に依頼し、12月の建設委員会で会・・氏より提案を受け、年が明けて2005年1月の建設委員会でデザインの大枠を決定した。
聖堂正面のご像は、受難の十字架か、復活のキリストかで議論があったが、建設委員の多数決で受難の十字架に決定した。カタログにあるような外国製のご像にはしっくり来るものがなく、たまたま会・・氏が保存していた、10年前まで二俣川教会の内陣に掲げられていたご像を、会・・さんに修復してもらい、レプリカを制作してもらった。このご像は、1968年に、静岡県掛川教会の主任司祭をなさっていたラネル神父様(故人)が制作されたもので、ご像のお顔や姿がいいことと、内陣の後ろの縦に長い壁面にピッタリと合うという理由で採用となった。信徒に対しては、聖堂内の掲示と建設委員会ニュースで、写真と選定理由を周知した。
祭壇と朗読台は木製(米松)で、聖堂の八角形の天井や2階部分の斜めのラインなどに呼応したデザインとなった。それと統一感のあるデザインで、聖櫃、洗礼盤台、司祭と侍者の椅子などを新調した。
木工は静岡県藤枝教会の信徒の小林信次郎氏(小林製作所)に依頼した。香部屋の設計・施工も、会・・氏にお願いした。
外構工事では、① 建物の周りの地面をどのように舗装するか(従来はコンクリート)、② 駐車場を舗装するか(従来は砂利敷き)、③ 植栽をどうするか、が大きなテーマとなった。
建物の周辺については、建設会社が工事を行う部分と密接に関わるため、建設会社に工事を依頼し、新しい建物を引き立てるためにインターロッキング舗装とした。駐車場を舗装するかどうかは竣工まで議論を続けたが結論が出ず、竣工後に予算を睨みながら結論を出すことになった。結局、予算的に可能ということで、3社から見積りを取り、一番安かった東京植木に発注した。舗装終了は献堂式の2日前だった。
植栽については、設計者に紹介してもらった東京植木に、解体前の樹木の移動から相談していたので、引き続き同社に依頼した。建物と植栽には密接な関係があるため、設計者と密にコミュニケーションできる会社を選んだことが、結果的には良かったと思う。また、内陣においても外構においても、設計者に、全体予算との兼ね合いを考えた予算管理をお願いできたのはありがたかった。
竣工を間近に控えて、考えなければならない問題が他にもあった。
まず資金の問題。建設献金は、着工後も引き続き募集を続け、未納者への働きかけも資金管理小委員会によって続けられてきた。しかし、献金2年目に入って、滞納という予期せぬ事態が目立ち始めた。滞納者には資金管理小委員会が連絡をとるとともに、新たな献金のお願いを全信徒に対して呼びかけることにした。
資金問題ではもうひとつ、予備費の使いみちについても議論が必要だった。当初の資金計画では1億6,900万円の建築工事費に対して約14%に当たる2,300万円強の予備費を計上してあった。この予備費は、追加工事費や、支出超過項目の穴埋めに使うためのものだが、余った予備費をどこに使うかの決断は難しかった。駐車場の舗装、聖堂内の椅子の新調、古くなった調度品の買い替え‥‥今回資金不足で後回しにした項目は数多くあり、そのどれを優先するかは、意見が分かれるところだった。今後の献金の動向をどう読み、まだ不確定の支出をどのくらいと読み、残りの資金をどこに投入するか。結局は、全体を総合的に把握している建設委員長の判断に頼らざるを得なかった。
新しい建物の呼び名を考える必要もあった。当初、建設委員会で議論したが、この問題は教会委員会が扱うべきだということになり、信徒からの公募と投票によって、新しい信徒会館(聖パトリック・ホール)と売店(ショップ・ガリラヤの丘)の名前が決定した。
そして、2005年2月28日、新聖堂、司祭館、信徒会館は、ついに竣工した。途中、大きなトラブルもなく、当初の予定通りの竣工だった。建設委員会は、規約では建物の竣工をもって解散することになっていたが、竣工後も外構工事や引越しがあり、4月の建設委員会まで延長されることになった。建設委員会発足後、月1回、一度も休まずに続けられてきた委員会は、4月の第39回をもって解散した。
8
竣工から献堂式まで 2005年3月~4月
竣工後の主な仕事は、① 引越し、② 教会委員会への引継ぎ、③ 献堂式の3つだった。
引越しについては、前年の10月から、移動管理委員会を中心に準備が進められ、竣工後の3月12日、仮聖堂から新聖堂への移動と倉庫に預けた荷物の運び込みが行われた。事前に信徒の参加を再三呼びかけた効果もあって、当日は120~130人の多国籍の老若男女が集まる大引越しとなった。土曜日に行われた教会の仕事に、かつてこれほどの人数が集まったことはなく、新しい器を満たすエネルギーに希望が持てる一日だった。
建設委員会の仕事は、竣工後は教会委員会に引き継ぐことになっていたが、その内容は予想外に多岐にわたった。
まず、教区からの借入金の返済業務。信徒からの献金内容については、資金管理小委員会のメンバー以外には一切明かされていないため、簡単にメンバーを入れ替えるのは難しかった。また、滞納者への対応、教会財務との峻別の必要などもあり、当面、資金管理小委員会のメンバーに教会委員会の傘下に入ってもらい、活動を継続してもらうことになった。ただし、完済までの10年間を同じメンバーに依頼することもできず、定期的なメンバーの入れ替えを行うこととした。
次に、建屋の管理と修繕業務。駐車場の舗装問題、サイン類の設置、継続使用する旧信徒会館と旧司祭館の一部の補修などが4月以降にずれ込んだため、設計・施工管理小委員会の中核メンバーに、同じく教会委員会の傘下に入ってもらい、活動を継続してもらうことになった。こちらは、残務が片付き次第解散する。
その他の引継ぎ業務は以下の通り。①「建物の使用方法の指針」の作成と広報、②「売店」「事務室」の運営方法の作成、③ 備品の不足部分の購入、④ 建設関係書類の保管、⑤ メンテナンス計画の実施。
最後に献堂式だが、これも前年10月から司教様のスケジュールを打診し、12月には献堂式準備委員会を発足して準備を進めてきた。建設委員会からは、渉外担当小委員会のメンバーを中心に3名の委員に参加してもらった。4月24日の献堂式当日には、近隣教会や建設関係者をはじめとする百数十名の来賓、近隣教会の方々、平塚教会の日本・フィリピン・南米のコミュニティーのメンバーの合計で、500人以上の方々が、記念ミサ、式典、パーティーに参加してくださった。聖堂と信徒会館をつなげると400名以上が着席できる設計にした効果が、さっそく現れた式典だった。
9
おわりに
あらためてこの3年間の活動を振り返ったとき、特に重要だと思われるのは以下の3点である。
まず第一に、建設をきっかけに教会が分裂しないように、細心の注意を払うこと。そのために心がけたのは、① 徹底的に信徒の意見を聞くこと、② 分かりやすい広報につとめること、③ 安易な多数決は行わないことだ。
信徒の意見を聞くためには、2回のアンケート、2回の公聴会、4回の信徒集会をはじめ、多くのミニ集会や、教会内のグループに建設委員が出向いての意見交換を行った。多様な意見を聞けば聞くほど、方向を一本化するのは難しくなるが、話を聴いた上で理由をあげて説明すれば、多くの人からは最終的に同意を得られるということを今回の経験から学んだ。
分かりやすい広報のためには、ミサに来ている信徒にはミサ後のお知らせの時間に直接話しかけミサにこられない人には合計10号発行した「建設委員会ニュース」によってアプローチした。特に「建設委員会ニュース」では、これさえ読めば建設に関する動きのすべてが分かることを目指し、誰にでも分かりやすく、できるだけコンパクトな誌面を心がけた。
安易な多数決を行わなかったのは、意思決定の際に「敗者」を作りたくなかったからだ。多数決を採用すれば、その陰で多くの意見が不採用となる。いったん意思表示をしたものが否定されるというのは、誰にとっても気持ちのいいものではない。また、多くの信徒にとっては、判断するための充分な情報や時間もない。そのテーマについて多くの議論と時間を費やしている建設委員が、明確な方向性を示し、信徒の同意を得る努力をすることが重要だと考えている。
これらの積み重ねによって、「反対派」の形成を未然に防ぎ、一致のうちに建設を進めることができるのだと思う。
第2には、あらゆる関係の中で相互信頼を確立する事だ。建設委員会内での相互信頼。信徒と建設委員会の相互信頼。主任司祭と建設委員会の相互信頼(主任司祭のブランチフィールド神父様はどんな時にも建設委員会の後ろ盾となり、建設委員会に深い信頼を示してくださった)。設計者や施工会社との相互信頼。他にもあると思うが、相互信頼なくしてスムーズな事業の遂行も、満足のいく結果もあり得ない。
そのためには、より多く聞き、伝えることを繰り返し、最後は相手を信頼して任せきる姿勢が重要だと思う。特に設計者や施工会社との付き合いにおいては、相手をプロとして信頼し、任せるべきところは任せることが、よりハイレベルな力を引き出す結果につながると思う。そのように信頼するための前提として、設計者や施工会社の選定プロセスでの、細心の注意と想像力が必要とされる。
経験上、設計者のデザイン・センスと工事監理能力、施工会社の技術力が、選定に当たっての最重要ポイントだと思う。
第3は、建設委員長を「独りぼっち」にしないこと。これは、副委員長に特に要求される心がけかもしれない。長丁場の建設プロジェクトでは、いろいろなことが起こる。順風もあれば逆風もあるが、逆風を一身に受けるのはリーダーである建設委員長だ。委員長の強いリーダーシップなしには事業の継続は難しいわけで、周囲の者は、委員長のモチベーション維持のために常に協力することが重要だろう。
リーダーは常に孤独である。そして仕事が集中しやすい。ある時は進んで仕事を分担し、ある時は愚痴の聞き役になりながら、委員長が「独りぼっち」にならないようにすることが、建設を成功裏に終わらせるための意外に重要なポイントではないかというのが、副委員長を務めさせていただいた私の実感である。
世俗的なことばかりを書き連ねてきたが、これらすべての活動は祈りのうちに行われ、恵みによって成就されたことを、最後に付け加えておきたい。
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