愛、受難、復活

カトリック平塚教会報 第117号 2019年4月12日発行

平塚教会主任司祭 トーマス・テハン

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人生において人は、成長し、成熟し、そして皆死に直面します。四旬節、過越の三日間、そして復活節を、私たちは毎年お祝いします。これは、教会の歴史の中で、最も古くから行われてきたことです。
多くの人たちは、人生の最期が近づいてくると、苦難を避けて人生を終えたいと願いながら、日々を過ごすものです。そのように考えることは、良いとも悪いともいえません。しかしながら、苦しみや死に向き合うことなく、復活の意味をほんのわずかでも理解することができるでしょうか。また、同様に受肉(incarnation)について十分に理解することができるでしょうか。
私は、司祭ダニエル・オレリー(Daniel O’Leary以下、ダニエル)の著書『死に向かうダンス』(Dancing to my death)を読んでみました。この本は、ダニエルが末期癌と診断された後に人生を振り返って書いたもので、昨年出版されました。
この本は、多くの点でチャレンジングです。ダニエルには多くの著書があり、大勢の人たちを救ってきました。ダニエルに、自分自身の将来をどうすることもできないと悟る順番がめぐってきた時、彼は不確実な時期をどうすれば前に進んでいけるかということを、時間をかけて考えるようになりました。この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 242345b0e9261865dd8a3ad97e0abb40.jpg です
多くの疑問がダニエルの心に浮かび、暗闇と疑念の中で、長い時間を過ごしました。ひとつだけ見失うことがなかったのは、ダニエルの母親が彼を愛してくれたこと、そして、特に生まれたばかりのころ、愛情深く抱きしめてくれることによって、その愛を彼に示してくれたことでした。この母親からの愛によって、ダニエルは神様から無条件に愛されていることを知ったのです。彼はそれを、自分の人生に流れる生命の糸と呼んでいます。宗教的な行いに、効力がほとんど見られないのではと思えた時も、神と母親の無条件の愛は、決して彼を見捨てることはありませんでした。
ダニエルは化学療法を受けることとなり、後に人工肛門袋をつけることになりました。ここで彼は、自分の体の腫瘍に対する最初のリアクションについて書いています。多くの人たちが彼の回復を祈っていることは知っていましたし、皆が心配してくれていることに感謝をしていました。しかし、彼は自問していました。「神は奇跡を行うよう、気持ちを静めておられるだろうか」。彼は教皇フランシスコの、「神は一粒の塵の中にもおられる」という言葉を思い返していました。ダニエルはさらに自問しました。「神は私の腫瘍の中にはおられないのだろうか」。腫瘍は私たちと同様に、正道から外れてしまうことがあります。彼は、次のような結論に達しました。「引き起こされる痛みの中にも、神のみぞ知る目的があり、この痛みは自分自身にとって師である」。それは、このような状況にならなければ得られなかった新しい経験でした。
ダニエルは今、信仰のより深い意味に向き合っています。彼は暗闇の底まで落ちてしまった時、神に救いの手を差しのべてほしいと望みながら、次のように書いています。
「私たちが自分自身のエゴや計画、コントロールから解き放たれ、人生の流れをありのままに受け入れることができた時、私たちの前に現れるのが、神の無条件の愛なのです」。苦難は避けるべきものではなく、他の人たちに代わって受け入れるべきものなのです。つまり、苦難もまた神様からの贈りものと考えられます。
ダニエルの経験は、イエスの苦しみ、受難、死、復活の意味について、彼があらためて考えるきっかけとなりました。ゲッセマネの園でイエスが神のご意志を理解しようとしていた時にも、同じ苦難を経験しました。ルカはそれを血の汗と表現しました。
他の人たちへの愛によって現実に従うという自由意志による決断は、他の人たちへの愛によって苦しみを受け入れるヒントを私たちに与え、私たちを復活への道に近づけてくれるのです。私たちの死は、その過程の一部にすぎないのです。イエスは肉体につながれていたとはいえ、勇気と希望に支えられた完全な自由を持っていました。人間として、闇や疑念が完全に払拭されていたわけではありません。
神と、苦しみを受けた被造物との愛の中で、癒され、許され、そしてひとつになるという自由は、ダニエルが書いている通りです。神が物事をどう見ているかを理解すること、そして、復活の実現を熱望することです。イエスは、私たちが神聖なものとなるように、謙虚にも私たちと同じ人の姿となられました。受肉は、神の愛のしるしとなるすべてのものについて現れます。たとえそれが、時に私たちには不幸と考えられるものについても。それは、神が望まれるように、私たちが本当の自分を外に示す時に、日常の中に現れるものです。愛と苦難は、このことが起きるための重要な瞬間なのです。もし私たちがキリストとともに死ねば、キリストとともに復活します。あなたもこのダンスに、参加してみませんか?(訳:M.U)

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