信頼


教皇フランシスコの言葉

今秋11月23日から26日にかけて、教皇フランシスコの来日が予定されています。それに先立って、教皇が最近半年間に公式の場で語られた言葉を、抜粋してお届けします。全文をお読みになりたい方は、カトリック中央協議会のホームページをご覧ください。

●4月17日一般謁見演説 祈りについて

最後の晩餐の後、イエスはゲツセマネの園に入り、御父に祈ります。弟子たちが眠っている間にユダが兵士を引き連れてやって来ます。イエスは「悩み苦しみます」。イエスは裏切られ、さげすまれ、苦しんで死ぬという、これから待ち受この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 08.jpg ですけていることに対して不安を覚えます。イエスは「悲しみ」ますが、その荒れ果てたどん底の中で、「アッバ、父よ」という、もっとも優しく柔和なことばを御父に向けて唱えます(マルコ14・33-36参照)。
イエスは試練の中で御父を抱きしめるすべを教えています。御父への祈りには、苦しみの中で前に進む力が含まれているからです。苦難に直面しても、わたしたちは祈りによっていやされ、自分自身をゆだね、なぐさめられます。イエスはすべての人に見放され、悲嘆にくれても、独りではありません。イエスは御父と一緒です。
一方、わたしたちも自分自身のゲツセマネにいます。しかし、イエスがされたように、真の善であるみ旨に身を任せることを選び、「父よ」と呼びかけて御父に身をゆだねるのではなく、多くの場合独りになることを選んでしまいます。苦難に直面して自分の中に閉じこもるとき、わたしたちは自分自身の中にトンネルを掘っています。それは一方通行で自分の内面に向かう苦しいトンネルです。どんどん自分の奥深くまで掘り進んでいきます。最大の問題は苦難そのものではなく、どのようにそれと向き合うかです。孤独はそこから抜け出る道を示してくれませんが、祈りはそうではありません。祈りは結びつき、ゆだねることだからです。
イエスはあらゆることと、自分のすべてを御父にゆだねます。ご自分が感じることをすべて御父に伝え、苦難の中で御父により頼みこの画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 09.jpg ですます。わたしたちも自分のゲツセマネに入ったら――わたしたちはそれぞれ自分のゲツセマネを、過去、現在、未来においてもっています――、次のことを忘れないようにしましょう。ゲツセマネに入る、もしくはこれから入るときには、「父よ」と祈ることを思い起こしましょう。

●4月10日一般謁見演説 愛すること

わたしたちが負い目のある者である理由は、愛することができるとしても、自分の力だけでは決して愛せないということです。真の愛とは、神の恵みを通して、わたしたちが愛するときの愛です。わたしたちのだれも、自分自身の光で輝いているわけではありません。
教会だけでなく、わたしたち一人ひとりの人生にも、古代の神学者が「月の神秘」と呼んだことが当てはまります。月の神秘とはどのようなことでしょう。それは月のように、自分から光を発するのではなく、太陽の光を反射するということです。わたしたちも自分自身の光をもっているのではありません。わたしたちが発する光は神の恵みを、神の光を反射する光です。
もしあなたが愛するなら、それは子どものころに誰かがあなたを微笑ませ、微笑んで応えられるよう導いてくれたからです。あなたが愛するのは、あなたのそばにいるだれかが、あなたを愛せるように目覚めさせ、生きる意味はその中にあると教えてくれるからです。

●2月13日一般謁見演説 「主の祈り」にない言葉

 意外なことに「主の祈り」には、あることばが含まれていません。どのことばがないのか聞いても、すぐには答えられないでしょう。ひとつの単語がありません。どうか考えてください。ひとつの単語です。現代においては――おそらくどの時代にも――だれもが重要視することばです。毎日唱える「主の祈り」にないことばとは何でしょう。

時間があまりないので答えを言いますが、それは「わたし」という単語です。「わたし」ということばは決して唱えません。キリスト者の祈りは「み名があがめられますように」「み国がきますように」「み心が……行われますように」というように、対話として行われるので、あなたを表す「み」を唱えることが求められます。わたしの名前、わたしの国、わたしの心ではありません。「わたし」ではありません。
その次に「わたしたち」へと移ります。「主の祈り」の後半全体には一人称複数が用いられます。「わたしたちの日ごとの糧をお与えください。わたしたちのこの画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 10.jpg です罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」。人間のもっとも根本的な願い――飢えを満たす食べ物を得ることなど――についても、すべて複数形が用いられています。キリスト者の祈りは、――今日、わたしにパンを与えてくださいというような――、自分にパンをくださいという願いではありません。わたしたちに与えてくださいと願います。
それはあらゆる人、世界のすべての貧しい人のための祈りです。このことを忘れないでください。「わたし」ということばはありません。「あなた」、「わたしたち」と唱えて祈ります。これはイエスからの大事な教えです。どうか忘れないでください。

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