信頼

特集「蟻の街のマリア」を覚えていますか?

太平洋戦争後の混乱期に、ひとりのカトリックの女性が貧しい子どもたちのために献身し、若くして帰天しました。その女性のことを人々は「蟻の街のマリア」と呼んで讃えました。「蟻の街のマリア」の物語は、かつては未信者の人々にも知られていましたが、今では忘れられつつあります。「蟻の街のマリア」のことを改めて思い起こしていただきたいと思い、この特集をお届けします。
また、「蟻の街のマリア」は、メルセス会の修道院で洗礼を受け、メルセス会に入りたいと熱望していました。メルセス会のシスターたちにお世話になっている平塚教会としては、他人のようには思えません。東京都杉並区のメルセス会の修道院を訪ね、当時のことをご存知のシスター中野からも、お話をうかがいました。

●尊者エリザベト・マリア北原怜子

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 02.jpg です

北原怜子(きたはら・さとこ)は、昭和4年8月22日、父は大学教授(経済学博士)、母は薬大卒という知的で裕福な家庭の第4子として生まれました。両親の愛にはぐくまれ、明るい性格に育ちました。怜子が昭和薬学専門学校の学生だったころ、年の離れた妹が通っていた光塩女子学院の経営母体であるベリス・メルセス宣教修道女会の修道女と出会いました。その修道会では、入会する時にたてる誓願が、「もし必要であれば、異教徒のために進んで自分の命をなげうってつくす」というもので、それを聞いた怜子は大変感動しました。昭和24年、怜子は光塩女子学院の聖堂で、カトリックの洗礼を受けました。霊名は「エリザベト・マリア」。
怜子が姉の嫁ぎ先である浅草雷門の履物屋に下宿していたとき、たまたまポーランド人のゼノ・ゼブロフスキー修道士(コンベンツアル聖フランシスコ修道会)が訪ねてきました。マリアの御絵を配り、戦災孤児のために祈ることを人々に勧めて回っていたのです。ゼノ修道士は、応対した怜子がカトリック信者であることを、怜子の手に下がるロザリオで知りました。怜子は修道女を志願していることを話しました。
そのころの日本はまだ敗戦の色濃く、家を失い、着るものも食べるものもないこの画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 03-1.jpg です人が多く、ゼノ修道士はそんな日本人を救うため東奔西走していたのです。「蟻の街」も浮浪者集落のひとつでした。ゼノ修道士の援助活動は新聞で報道されていましたが、怜子がそれを知ったのは何日もあとのことでした。ゼノ修道士とともに「蟻の街」という廃品回収業者の居住地を訪れた怜子は、バラックに住む人々を見て愕然としました。子どもたちは、貧しさから学校でいじめられていて、家に帰れば親の仕事を手伝うため、遊ぶ暇も勉強時間もないことを知りました。怜子は「蟻の街」に出入りするようになりました。子どもたちと一緒に廃品回収の仕事をし、勉強を教えました。「蟻の街」のクリスマス会の準備では、子どもたちに歌を教えました。「蟻の街」の子どもたちは思いやりを学び、生きる希望を持つようになりました。しかし親たちにとっては、怜子は子どもたちに贅沢を教える困った存在であり、反感を買っていました。「蟻の街」は、アリのように力を合わせて、苦しい生活から出ようという目標を持った人たちの集まりでした。傷つき、すさんだ心の大人たちは、令嬢の怜子を受け入れることはできなかったのです。しかし、受け入れられたいと考えた怜子は、古びた地味な着物に着替え、「蟻の街」に通い続けました。
昭和25年、クリスマス会では大人たちも合唱に加わりましたが、彼らは心身が疲れていて、まだ怜子を受け入れられず、また、「蟻の街」がカトリックの雰囲気になってきても、ゼノ修道士の話も聞き入れなかったのです。そのころから、怜子は肺結核を患ってきていました。やがて怜子は、貧しい人々を慰問するだけでは偽善的であり、大きな罪であると悟り、自らが汗を流して、ともに生活し、労働をし、助け合うべきだと考えました。富や名誉、地位もまた、悪魔の誘惑として退けるようになりました。
苦しそうに荷車を引く人を手伝ったりするうちに、怜子は大人たちにも受け入れられるようになってきました。新聞に、隅田川のほとりの「蟻の街」に、大学教授の令嬢が入り、いっしょに働いているという記事が出ました。その後、貧しい暮らしをこの画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 04.jpg ですしている人々への差別や偏見が、取りのぞかれていきました。桜蔭女学校時代の同級生に廃品回収をするのは恥ずかしくないかと聞かれると、怜子は、「そりゃ恥ずかしかったわよ」と答えましたが、それでも「蟻の街」の生活を選びました。ある新聞社からの取材を受けたとき、怜子は、「大学教授の娘はやめ、廃品回収業者になりました」と答えました。

怜子を仲間として認めた大人たちは、子どもたちの勉強部屋をつくりました。夏休みになると、子どもたちの学校で、海や山の感想を書く宿題が出ました。怜子は父親に、子どもたちを海に連れていくための資金の相談をしましたが、「蟻の街」を家に持ち込むなと退けられました。
しかしその後、「蟻の街」に大量の空き缶が届いたので、子どもたちとそれらを売って、夏の旅行の資金にしました。実はその空き缶は、父が調達したのでした。怜子は、海で子どもたちの喜んだ様子を父に伝えました。父は、「怜子は屑かごの中から宝ものを探しているんだね」と言いました。あるとき子どもたちは、自分たちと同じように困っている人のために募金をしようと、屑拾いに励みました。彼らは「人の心の痛みを知る」ことを怜子から学んでいたのです。「蟻の街」の子どもたちは、都知事から賞賛の言葉を受けました。
昭和27年、結核のため箱根のサナトリウムに入院した怜子は、退院しても「蟻の街」に住みこもうと思う、と父に話しました。「だって私は蟻の街のマリアと言われているのですから」。しかし怜子が戻ると、別の「蟻の街のマリア」が教会から派遣されていて、子どもたちもなついていたのです。怜子はその人に嫉妬しました。怜子は、自分をたたえる新聞記事を全て焼却して「蟻の街」に戻りました。すこの画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 05.jpg ですると病は小康状態になったのです。それでもこの病のために、修道女を志願していた怜子は、断念せざるをえませんでした。東京都は近代化を進めるためにホームレスのバラックを一掃し、焼き払いました。「蟻の街」も危機を迎えました。移転を促されましたが、金銭的に折り合いがつかず、怜子は病床で、都に提出する請願書を徹夜で清書しました。結果、「蟻の街」は移転することができました。その笑顔が貧しい人々の希望となっていた怜子でしたが、病は進行し、昭和33年1月23日、28歳で帰天しました。
社会福祉政策により貧困地区から脱した「蟻の街」の中の「蟻の町教会」は、東京都江東区枝川地先8号埋立地で「カトリック枝川教会」となり、その後1985年に町名と教会名が変わって、「カトリック潮見教会」となりました。潮見教会の聖堂には「蟻の街のマリア」という聖堂名があります。教会に隣接する高層ビルはカトリック中央協議会です。北原怜子列福運動が、ゼノ修道士の所属していたコンベンツアル聖フランシスコ修道会によって進められています。バチカンは怜子の「英雄的徳行」を認定し、2015年に「尊者」の称号が与えられました。

●怜子さんの思い出 メルセス会 シスター中野佐和子

私が初めて北原怜子さんにお会いしたのは、高校2年生の時です。この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 06.jpg です私は光塩女子学院の生徒で、公教要理のためにメルセス会の修道院に通っていました。いまお話をしているこの場所です。怜子さんは、年の離れた妹さんが光塩の小学校に入学されて、そのお見送りによくいらしていました。私たち高校生がガーガー騒いでいると、隅のほうで「おっほっほ」と笑っていらっしゃいました。
ほっそりとした方でしたね。昭和薬科をお出になられて、受洗されたばかりだったと思います。私より3歳ぐらい年上でした。私が今88歳ですから、生きていらしたら、今年91歳になられるのではないでしょうか。この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 07.jpg です
怜子さんは、浅草にいらしたお姉さまのところに時々いらしていました。お姉さまの嫁ぎ先が、浅草の下駄屋さんだったのです。戦災孤児の救援に力を入れていたゼノ修道士は、その下駄屋さんの前を通って、孤児たちのもとに通っていました。ゼノさんが通るのを2回目に見た時に、怜子さんは「あれっ?」と思ってついていったそうです。そうしたら、「蟻の街」の子どもたちが集まっていました。そこで心を打たれて、「この子たちならば」と思ったとおっしゃっていました。ゼノさんも怜子さんを見て、「この人ならば」と思ったそうです。
やがて「蟻の街」の松居さんという方が2階屋を建てて、怜子さんがそこを借りて、子どもたちを預かるようになりました。
私たちが高校3年生の時、光塩のクリスマス会にどなたをお呼びするかということになって、怜子さんが預かっている子どもたちを呼ぶことになりました。20人には足りないくらいの子どもたちが、ゼノさんと怜子さんとともにやってきました。子どもたちにご飯を出して、劇を見せました。あのころの日本はまだめちゃめちゃでしたから、ご飯といっても、お芋の焼いたのとか、メリケン粉を混ぜて作ったちっちゃなケーキとかしかありませんでした。でも、子どもたちは喜々として食べてくれました。怜子さんも隅のほうで微笑んでいらっしゃいました。
怜子さんはメルセス会に入りたいと思っていらしたのですが、お体がそんなに丈夫でなかったのと、お父様が反対だったのですね。お父様が「もう少し待ったら」とおっしゃるので、その間しょっちゅう、この修道院に来ていました。そのころ修道院に入る人の服装は、黒い着物と袴だったのですが、怜子さんもそのような格好をして、写真に写っていらしたのを覚えています。
私は光塩を卒業した後、大学に行って、すぐにメルセス会に入りました。それから光塩で教えるようになりましたが、怜子さんの妹の肇子さんが中学2年のときに、ちょうど私が受け持ちになりました。怜子さんが亡くなられたのは1月23日だったのですが、授業中にお母様からお電話がかかってきて、「怜子が今亡くなりましたから、肇子をお帰しいただきたい」といわれたのを覚えています。
怜子さんは今、尊者になられたと聞いています。私は、ゼノさんが亡くなる直前に、病院でお世話をしていたことがありますので、ゼノさんも聖人になられてもいいと思っています。

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